FC2ブログ
星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

松尾城(粟野城) 鹿児島県姶良郡湧水町

松尾城 大手門??
松尾城 大手門??

南九州唯一の山城跡とされ、特に虎口の石垣と翻案ルの屋形土台石の存在は貴重な文化財。古代、中世を通じて薩隈日、球磨の戦略拠点として重要な砦であり真幸院領主北原氏がこの城二移った。
戦国末期、島津氏が3州を統一、今から役380年前の天正18年(1590年)には島津義弘が飯野城から移り帖佐に移る迄の満5年間居城とした。
その間文禄元年(1592年)の朝鮮遠征には松尾城から出陣している。
現地説明板より



松尾城 説明板2
松尾城 説明板




松尾城 虎口
野面積の虎口




松尾城 郭1
松尾城 本丸 城址碑が建つ




松尾城 本丸からの展望
本丸からの展望





本丸と二ノ丸間の堀
本丸と二ノ丸間の堀





松尾城 二ノ丸へ





松尾城 二ノ丸
松尾城 二ノ丸




松尾城 本丸の石垣


2012年7月 登城

スポンサーサイト



横川城 鹿児島県霧島市横川町

横川城 登城口
横川城 登城口
横川城は、承久年間(1220年前後)に大隅国守護横川時信がこの地方の領主として居城していました。その後、永禄年間になると、真幸院領主の北原伊勢介の領地となります。
永禄5年(1562)北原氏に内乱があり、一族の多くは薩摩鶴丸城の島津氏につきましたが、北原伊勢介と子の新助は、日向飫肥城の伊東氏について横川城に籠もりました。
島津貴久は、永禄5年6月3日に島津義弘、歳久の兄弟に横川城を攻めさせると、極まった北原伊勢介親子が城内で自刃し横川城は落城しました。
島津貴久は、横川城を菱刈重猛に与え、重猛は一族の菱刈中務に城を守らせます。ところが永禄10年に重猛の弟隆秋の謀反に加わり、菱刈の馬越城が落城すると、菱刈中務は横川城を棄てて大口城へと退きました。




横川城 説明板
横川城 説明板




横川城 郭1の土塁上から
横川城 郭1の土塁上から




横川城 郭1と郭2間の堀
郭1と郭2間の堀


2012年7月 登城

富隈城 鹿児島県霧島市

富隈城 石垣1
富隈城 石垣 南東隅の石は加藤清正が寄進したものと伝わる
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉により強制的に隠居させられた島津義久はそれまで居城としていた内城を退去する事態に追い込まれ、急遽薩摩国と大隅国の境にあり、港が近くにあるこの地に屋形を築いた。これが富隈城である。
通常島津氏の城は裏山に後詰めの山城があるが、この富隈城にはそれに当たる物が無く、秀吉に対して恭順の意を表したとも、或いは秀吉に圧力を掛けられたとも言われている。周囲は南北250メートル、東西150メートル、高さ30メートル余りであり、かつては堀があったとも言われるが、単に丘の上に屋敷がのっかっているだけであり、防御面には非常に弱い城であった。
慶長9年(1604年)、島津義久は隣の国分に新しい城・国分城を築いて移り、富隈城は廃城となった。
義久がこの地に移転したのは不本意なことであったらしいが、その僅かな在城期間に城下の浜之市の港を整備して商人を招き、江戸時代には坊津、山川等と並ぶ薩摩藩内では栄えた港の一つとなった。この地で行った開発を義久は国分で引き続き行っており、実験的な城下町の一つだったと考えられる。
現在は石垣のみが残っており、北側には公園ができている。南東隅の石は加藤清正が寄進したものと伝わる




富隈城 稲荷神社
富隈城 稲荷神社




富隈城 城石
富隈城 城址碑




富隈城 高台より望む
神社後方の高台(物見?)からの展望





富隈城 石垣2


2012年7月 登城

舞鶴城 鹿児島県霧島市

舞鶴城 城址碑
舞鶴城 城址碑
舞鶴城は、国分小学校と国分高校の運動場のある一帯にありました。南側の道路に面して、高さ3メートル、長さ200メートルの石垣とその前の堀、そして2つの石橋が昔の面影をわずかに残しています。島津義久が富隈城(隼人町)から舞鶴城に移居したのは、慶長9年(1604年)のことで、7年間居城されました。館造りとともに城下町(現在の市街地)もこの頃造られました。



舞鶴 朱門と堀
舞鶴城 朱門と堀





舞鶴城 朱門
舞鶴城 朱門




舞鶴 石垣と堀
舞鶴城 石垣と堀



2012年7月 登城

桑幡氏館 鹿児島県霧島市

桑幡氏館
桑幡氏は、息長姓をもち現在の当主で76代目となる。中世には「社家の筆頭」とされる。長く大隅正八 幡宮の四社家として、留守・沢・最勝寺氏とともに神宮の繁栄を支えてきた。桑幡氏は、「火闌降命よ り出、欽明天皇御宇息長姓を賜う」とあり、隼人の子孫であるともいわれ、また、大分県の宇佐から来 たともいわれる。平安~鎌倉時代には助清・清道親子152・53代)が活躍した。『平家物語長門本』に第 53代息長清道が登場し、平清盛と親交があったことが記されている。
 平成12年度から宅地造成やマンション建設・保存整備目的等でこれまで6回調査された。第1・2次 調査では、館を取り囲む堀や池状遺構などを検出。堀は底面が狭くなる薬研堀を呈し、幅約4m、深さ 3mの規模である、その後に検出された堀や現存する土塁からみて、南北方向は90m、東西100mの区 画をもつ。
 発掘調査で発見されたものは、弥勒院跡と同様、海外の陶磁器や土師器などが多量に出土。中国製青 磁・白磁,高麗青磁、タイ・ベトナム産陶器、国内産中世陶器、近世陶磁器など。国内産の中世陶器に は、東播系、東海系、備前系など。近世では、肥前系や在地系のサツマ焼も多量に出土。この他に、滑 石製品,瓦,鉄釘,煙管,古銭,砥石,硯など。注目されるものとして,畿内産の楠葉・和泉型瓦器圷 や土製鍋、15世紀頃の風炉などがある。
 出土した多量の土師器は、この館内で行われた様々な儀式とも深く関係していると思われる。『上井 覚兼日記』には、この館内で式三献の儀式が行われていることが記録されている。
 大宰府編年C期から遺物が多くなることから、桑幡氏は11世紀後半頃には、ここに居住していること が考えられる。





桑幡氏館跡 説明板
桑幡氏館跡 説明板




桑幡氏館 土塁
桑幡氏館跡 土塁と氏神




桑幡氏館 説明板より
桑幡氏館 説明板より

2012年7月 登城