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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

吉田郡山城 広島県安芸高田市

 郡山城 本丸からの展望郡山城 本丸からの展望





戦国武将毛利元就が居城とした郡山城は、可愛川えのかわと多治比川たじひがわの合流点の北側に位置し、吉田盆地を見渡す場所に築かれた中国地方最大級の山城です。本丸を中心に放射状に広がる尾根を利用し、無数の郭が築かれています。
築城時期は不明ですが、15世紀中頃には、郡山の南東の独立した尾根上に毛利氏の本拠城として存在しており(本城)、元就の時代(16世紀中頃)に全山が城郭化されたと考えられています。
元就は嶝かさと呼ばれた山頂で暮らし、城内には主要な家臣が配置されていました。
その後、孫の輝元の時代には修築や城下の整備が行われています。
天正19(1591)年に本拠を広島城に移したのちも郡山城は維持されていたと考えられますが、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、毛利氏の防長転封により廃城となりました。





郡山 百万一心
郡山城の改修に際して、元就が人柱に代わり「百万一心」と彫った石を埋めさせると工事が上手くいった、という伝説です。その後幕末に長州藩士が山中で実物を発見したと自書していますが、現在に至っても石は未発見のままで、郡山城最大の謎となっています。




釜屋の壇
本丸から15m下がった北側に位置し、炊事場があった。6つの段で形成される曲輪群。ここから北へ向かうと羽子の丸へ出る。




郡山城 三之丸
城内最大の曲輪で、石垣・土塁・掘削などによって四段に分けられている。石塁・石垣などが現存する。西側の虎口には、石垣の中に階段が組み込まれて内枡形となっており、近世城郭的な構造である。三の丸から連なる帯曲輪には御蔵屋敷あった。




郡山城 石垣跡
郡山城 石垣跡



郡山城 姫之丸
本丸の北にある7段の曲輪群で、本丸北側の石垣の基部にあたる。「一日一力一心(百万一心)」と書かれた礎石が埋められていると伝わる




郡山城 本丸
郡山山頂に位置する一辺が約35mの曲輪。元就の屋敷があった。北端に一段高くなった櫓台(長さ23m、幅10m)がある。前述の吉田郡山御城下古図や、天正15-16年頃に描かれた絵図には、本丸に三層の天守閣が描かれている




郡山城 ?




1997年7月登城の古い写真です。
[広島県安芸高田市吉田町吉田2440]

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三原城 広島県三原市

三原城 絵図

三原城 絵図(現地説明板より)




毛利元就三男、小早川隆景は1567年新高山城から、この地に三原城を築いて移った。山城から、政治、文化、経済の中心としての城下町計画を.ともなった平城への推移をみごとに示している。
また大阪城、安土城よりはやくに着工され、当時としては破天荒な城で、浮き城と呼ばれていた。







三原城 天守
三原城 天守




三原城 天守台
三原城 天守遠景



初代城主 小早川隆景初代城主 小早川隆景



小早川家菩提寺 米山寺小早川家菩提寺 米山寺   米山寺にて、小早川隆景が僧侶100人を集めて元就の一周忌法要をおこなった。




*1997年7月登城の古い写真になります
[広島県三原市館町1丁目1]

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広島城 広島県広島市

2二の丸表御門
二ノ丸表御門





利元就を、継いだ輝元が天正17年(1589)に築城を開始し同19年に入城した。
毛利が関ケ原にやぶれ周防二周に退いたあとも、芸備二周の本城として福島正則が入城し後に浅野氏が入部した。
太平洋戦争で、原子爆弾により城も町も消え去るが、戦後市民の意欲によって天守を復元した。





広島城
広島城 天守





城は、町の中に存在し当時としてかなり大きい天守を持った平城だった。
元就が中国地方を.、統一し孫の輝元が大大名として築城したがすぐに関ケ原が始まり敗れ萩に移ていったが、城下町ちとしては大きく成長していった。





広島城 天守の礎石広島城 天守の礎石






*1997年7月の古い写真です。
[広島県広島市中区基町21−5]


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宮尾城 広島県廿日市市宮島町

 宮尾城 説明板
宮尾城 説明板





厳島北西にある要害山と呼ばれる標高30mの丘を中心に築かれた連郭式平山城である。現在と違い、当時は城北部の山麓まで海が迫っており、三方が海に面し、水軍の運用も可能な城であった。そのため、援軍として熊谷信直を送り込むことができた。
城自体は決戦を前に急造された陣城のような城とされるが、脆く崩れやすい地盤を固めるために石垣も使用されている。また、築城にも人夫1000人を使って、1か月程度はかかっており、戦時急造の雑な城ではなかったと推測される。





海から見た厳島神社





宮尾城 
宮尾城



毛利元就が厳島の戦いに先だって築城したとされることが多いが、実際はそれ以前から存在している。
1554年(天文23年)5月、防芸引分により厳島を占領した毛利元就はこの城に番兵を置き、補修に着手。6月に陶晴賢軍が海から襲来したが、上陸を阻んだ。1555年(天文24年)9月21日、厳島の戦いが起こり、毛利側が勝利。
その後、宮尾城の処遇は不明である。




1997年7月登城の古い写真です
[広島県廿日市市宮島町1162−1]
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桂城 広島県安芸高田市

桂城 説明板

桂城 説明板 麓から上がり、鞍部にある説明板


毛利氏、譜代の桂氏の居城で、十六世紀初頭頃坂氏からの分家した広澄がこの城に入ったとされる。
桂城は、小高い山にあり国道からすぐの所に.あった。東西に、小さい郭群があり小さい規模の城の体裁をなしている。




桂城 鞍部
この鞍部の東西に郭が有る



桂城 郭1





桂城 郭





桂城 1
山頂からの展望


*1997年7月登城の古い写真です。
[広島県安芸高田市吉田町桂415]

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