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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

津和野城 島根県津和野町

津和野城









津和野城は町の南端に位置する標高370mの山上にあった。別名を三本松(さんぼんまつ)城、蕗(ふき)城、山の名を霊亀山という。南北3kmにのびる丘陵上にあり、中世には全山が城塞として使用された。

 元冠にさいして、西国防備を命じられて西石見吉賀地方に下向した吉見頼行が、永仁3年(1295)から築城にかかり、約30年の歳月をついやして完成したと伝えられる。山上をけずり削平地とし、山の峰つづきに堀切をつくった典型的な山城であった。石垣構築は室町末期といわれる。

 関ケ原の戦いの戦功で入城した坂崎出羽守成正は、城郭の大改築をはかり、本丸の北方約200mの山頂に側面防衛のための出丸である織部丸(おりべまる)を築いた。今日残る遺構の大部分がこのとき築かれたものである。また城の内堀は城山をめぐって流れていた津和野川をあてた。亀井氏になって寛文年間(1661〜1673)に現在の大橋から横掘までの約1kmにわたって外堀が掘られた。

 吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間ののちは、明治維新まで亀井氏が11 代225年にわたり城主として在城した。貞享3年(1686)に天守は落雷のため焼失し、その後再建されることもなく、明治7年(1874)に石垣を残して解体された。その間、吉見氏十一代正頼が天文23年(1554)、陶晴賢(すえはるたか)の大軍をこの城で迎えうち防戦した戦史がある。

 現在は太鼓谷稲成神社の参道からリフトによって約5分で頂上に達する。城郭建造物は何もないが、全曲輪(くるわ)の石垣はほぼ完全な形で保存されている。東部の高所が本丸跡、西のやや低い所が天守台、また南門跡をつなぐ石垣は広壮であり、吉見氏後期に改築した大手ははぼ東北にある。東門跡、三段櫓跡、腰曲輪跡の石垣は階段状に延々と連なって雄大である。さらにその北方やや低い所に三本松平をへだてて、普請奉行だった浮田織部の名をとった織部丸があり、東麓に館跡や侍屋敷跡がある。古城の旧態をよく保ち、ことに石組の堅固さ、雄大さは比類のないものである。


㊟現在(2017.9.11)出丸は石垣補修中の為に見学は不可






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津和野城天守台



津和野城 人質郭
津和野城 人質郭




三十間台
三十間台





津和野の街並み
津和野の街並み





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広瀬陣屋 島根県安来市

広瀬藩は、かつての出雲の中心地だった、現在の安来市広瀬地区に広瀬陣屋に藩庁が置かれた。
寛文6年(1666年)松平家松江藩初代藩主・直政の次男・近栄が3万石を分与され立藩した。天和2年(1682年)近栄は越後騒動に荷担した罪から知行を半減されたが、貞享2年(1686年)に5千石、元禄7年(1694年)1万石を加増されて再び3万石となり、以後10代205年間在封した。嘉永3年(1850年)8代・直寛は幕府公役の勤を評され城主格となっている。
明治4年(1871年)、廃藩置県により広瀬県となり、同年松江県、母里県、浜田県の一部(隠岐地方)と合併して島根県になった。
藩主の松平家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)に子爵を叙爵した。



広瀬小学校の西側にある広瀬社会福祉センターの前に石碑と、広瀬町名誉町民顕彰館の駐車スペースの隅には案内板が設置されています。案内板には細かく当時の陣屋の様子が描かれています


松平広瀬藩邸石碑
松平広瀬藩邸石碑



広瀬陣屋 1
広瀬陣屋跡、 安来市地域包括支援センター



広瀬陣屋 石垣 1
広瀬陣屋 石垣 1



広瀬陣屋 石垣2
広瀬陣屋 石垣2





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玉造要害山城 島根県松江市

玉造神社
玉造神社
玉造温泉街奥部の玉湯川東側にあり、『出雲国風土記』および『延書式』にも記載されている古社。出雲玉作部(たまつくりべ)の祖神とされる櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)を祀る。出雲国造は新任のさい、朝廷に参向して神賀詞(かんよごと)を奏上し、献玉するのがしきたりであったが、その玉の多くはこの地で作った。櫛明玉命のほか温泉守護、温泉療法の神である大名持命(おおなもちのみこと)および少彦名命(すくなひこなのみこと)も祀ってある。

 社宝として玉作跡から出土した玉類の完成品、半製品、砥石(といし)、古代のガラス、坩堝(るつぼ)など700余りがある。いずれも国の重要文化財。境内に古代住居を摸した収蔵庫があり、玉類をおさめている。その他の社宝に不味公の采配、玉造城城主佐々木氏の陣太鼓などがある。



御守り石
願い石~玉作湯神社(玉造温泉から徒歩5分)の境内に奉られており、はるか昔から「願い事を叶えてくれる」と評判の石で、島根県内でも人気のスピリチュアルスポットです。


玉造要害山城案内板
玉造要害山城案内板

玉造要害山城は、湯秀貞によって築かれた山城で、尼子氏重臣として活躍した湯氏の一族が拠った。
最高所の本丸を中心に、北西の玉作湯神社方面に山腹を半周する帯郭を含む四段の郭が設けられている。
本丸及び本丸の帯郭には、尾根筋方面に土塁、縦土塁が設けられ、加えて本丸直下の堀切は土塁を伴う厳重な構えとなっている。
麓の郭と本丸帯郭の間に設けられた郭には、食い違い土塁及び連続縦堀群が設けられており、帯郭の縦土塁と共に、尼子氏流築城術にはない特徴が見られる。
山上の遺構は保存状態が良く、空堀及び土塁が往時の姿を留めている。また、本丸下の尾根鞍部に井戸跡が残る。

鎌倉時代、佐々木泰清の第七子頼清が湯荘に入り、湯氏を称して拝志及び湯の二郡を支配した。
南北朝時代、湯頼清の孫湯秀貞が湯荘に入り、玉造要害山城を築いた。
富士名義綱が南朝方として隠岐にあった時、湯荘留守職の諏訪部扶重が謀反を起こし、玉造要害山城も攻められ落城した。
永禄元年(1558年)に記された玉作湯神社の棟札に湯菊丸の名があり、戦国時代後期にはこの湯氏の傍系が拠っていたものと考えられている。玉造要害山城のその後は詳らかではないが、毛利氏の手が加えられた可能性が指摘されている。






玉造要害山城 入口
玉造要害山城 入口



玉造要害山城説明板 入り口
玉造要害山城説明板 入り口



玉造要害山 削平地 郭
玉造要害山城 四ノ平



玉造要害山 削平地2 郭
玉造要害山城 三ノ平



玉造要害山 ニノ平
玉造要害山 ニノ平



玉造要害山 ニノ平標柱
玉造要害山城 ニノ平の標柱



玉造要害 登城道
玉造要害山城 登城道



玉造要害山 伝湯佐渡守古墓
玉造要害山城 伝湯佐渡守古墓



玉造要害山 一の平 土塁
玉造要害山城 土塁




玉造要害山 一の平
玉造要害山城 一ノ平




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月山富田城~島根県安来市~

月山富田城

所在地 島根県安来市

月山123


月山富田城は、中国10ヵ国の太守の居城に相応しい大城郭で陶氏も毛利でさえ撃退しています。
麓から、本丸の在る山頂まで散策道が整備され又随所に復元整備がなされ十分に当時を想像させてくれます。
現在の城址をご覧ください。





完成月山富田城@ヤマシロ
㊟現地説明板を参考に、イメ-ジ図になります(・Д・)ノ



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松江城 島根県松江市

松江城

所在地 島根県松江市

松江城



松江城は18万6,000石の城下町松江のシンボルで、「千鳥城」とも呼ばれ、望楼型、下見板張り、桃山風の質実剛健の構えが特色である。全国で現存する12天守の一つで、山陰地方で唯一の現存する天守。平成27年7月に国宝に指定された。

 松江開府の祖堀尾吉晴が慶長12年(1607)から5年の歳月をかけ、慶長16年(1611)に完成させた。堀尾3代、京極1代、松平10代の居城であった。
 標高28mの亀田山(城山)の丘陵上に構築された平山城で、豊臣秀吉の臣下にあって加藤清正とともに普請上手(ふしんじょうず)といわれた吉晴らしい実戦本位の設計が随所に見られ、吉晴と親交があり、『太閤記』の作者としても知られる小瀬甫庵(おぜほあん)の縄張り(設計)といわれる。

 現存する天守は4重5階天守地下一階付で高さ約30mの望楼式。南面して附櫓(つけやぐら)があり、これが入り口で土台の石垣の中に地階があり、兵糧蔵、塩蔵、大井戸などかある。2階には6か所に“石落(いしおとし)”があり、外壁も大部分は黒く部厚い下見板張り。
 関ケ原の合戦が終わって間もない頃で質実剛健の構えが特色。姫路の白鷺城に対し、千鳥城の名がある。各所に袋狭間(ふくろはざま)(銃眼)が設けられ、最上階の天狗の間からは四方が死角なく展望でき、眺望は格別。
 階段は桐(きり)材。柱は1本の外側に板を揃えて合せ鉄輪(かなわ)でしめ太い柱が作られている。天守内には創建の頃作られたと言い伝えられる松江城のヒナ型をはじめ武具などが展示されている。

 天守を中心とした本丸にはこれを囲んで武具櫓、鉄砲櫓、祈祷(きとう)櫓など六つの櫓があり、細長い多門塀(たもんぺい)がこれを連絡していた。しかしこれらは二の丸(現興雲閣、松江神社付近)や三の丸(現島根県庁付近)の各種御殿とともに明治初年に壊された。
 天守は明治8年(1875)米100俵(180円)とはぼ同じ値段で払い下げられかけたが、出東(しゅっとう/現出雲市斐川町)の豪農勝部本右衛門(もとえもん)らが奔走して買い戻し、取り壊しをまぬがれたという。








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