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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

小谷城 滋賀県長浜市


2012年8月登城



長浜市の小谷山(495.1m)にあり、浅井家が3代にわたって居城としていました。築城は1524年ごろで、中世三大山城のひとつです。湖北の大名・浅井長政と織田信長の妹で戦国一の美女といわれたお市の方、その間に生まれた3人の娘・浅井三姉妹(茶々、初、江)ゆかりの城です。城跡からは琵琶湖や湖北の地を一望することができます。
 織田信長との戦いで浅井家が滅んだ後、羽柴(豊臣)秀吉に与えられましたが、秀吉は今浜(現在の長浜)に城を築いたために、そのまま廃城となってしまいました。小谷山全山におよぶ城跡の遺構から、当時の面影を偲ぶとともに、お市の方と3人の娘たちの生涯に思いをはせます。
 自然の地形を利用して、東西の尾根づたいに各郭が配置され、本丸、大広間跡などから建物の礎石が出土しました。最頂部の大獄(495m)にも土塁が残っています。清水谷には、平時における浅井氏と家臣たちの館跡があります。昭和12年(1937)、国の史跡に指定されています。






小谷城説明板
小谷城説明板




小谷城
小谷城城址碑




小谷城からの展望
小谷城からの展望




本丸の石垣
本丸の石垣




京極丸
京極丸




赤尾屋敷
赤尾屋敷





[滋賀県長浜市湖北町伊部329]

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玄番尾城 滋賀県長浜市 福井県敦賀市


2013年7月13日登城



柳ヶ瀬山(中尾山)の尾根上に位置し、織田軍と朝倉軍が戦った刀根坂の戦いの舞台の刀根越(倉坂、久々坂ともいう)がすぐ南にある、また北国街道(現在の国道365号)を見下ろせる軍事上の要所に位置している。さらに南側の行市山には、中尾山と行市山を結ぶ軍道を整備したと伝わる勝家の家臣・佐久間玄蕃允盛政の砦があったという。

賤ヶ岳の戦いの際に勝家・秀吉の両軍が布陣した山城の中でも、玄蕃尾城は空堀の深さ、土塁の高さが際立っており、また、現在においても、その遺構がよく残っている。また、定期的な草刈り整備が行われており、縄張り構造が非常によく分かる状態で維持されている。





玄番尾城 標柱






玄番尾城 説明板



基本構造は南北に並んだ主要な4つの郭であり、土橋で連結され、その広がりは南北約250m、東西約150mに及ぶ。すべての郭を高土塁で囲み、主要な部分は土塁と空堀の多重防御を施している。また、主郭には2つの馬出郭、1つの張出郭が備わっており、腰郭も近傍に位置する。主郭の北東隅には、方形の一段高くなった箇所があり、櫓もしくは天守のような建造物があったと推定される。

主郭部の南側には、食い違いや曲がった隘路を設けた虎口郭が2つ直列しており、刀根越からの敵を迎え撃つ造りとなっている。主郭部北側の搦手の郭は最大の広さを持ち、兵糧などの物資や兵の駐屯のためのスペースであったと考えられる。全体として完成度が高く、山城の最高水準の到達点の一つであるといえる。





玄番尾 大手郭
玄番尾 大手郭




玄番尾城 主郭
玄番尾城 主郭




玄番尾城 空堀
玄番尾城 搦手郭 空堀




玄番尾城 櫓台
玄番尾城 櫓台





[滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬482]

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鎌刃城 滋賀県米原市


2013年7月13日登城、麓からでなく林道から入りました。


番場は古くから東山道(中山道)の要衝に位置しており、鎌倉時代には西遷御家人土肥氏が箕浦荘の地頭に補任されている。土肥氏は番場に居館を構え、その跡は現在「殿屋敷」と呼ばれている。しかし、戦国時代になると番場の領主は土肥氏から堀氏に代わり鎌刃城が築かれた。

『今井軍記』によると文明4年(1472)に今井秀遠が堀次郎左衛門尉の立て籠もる鎌刃城を攻めており、この頃にはすでに堀氏の城として機能していたことが分かる。天文7年(1538)には六角定頼が湖北に侵攻し、鎌刃城、太尾山城、磯山城、佐和山城がことごとく落城している。

『嶋記録』によると当時の鎌刃城主・堀石見は京極高広方に属していたことが知られ、当時の坂田南郡は六角氏と浅井氏の抗争に加え、湖北の守護京極氏政権も維持されているという、複雑に錯綜した地域であったようである。

元亀元年(1570)、浅井長政が織田信長に反旗を翻すが、鎌刃城主・堀秀村は木下藤吉郎の説得によって織田方についた。信長は戦時下の湖北支配を堀氏に任せ、一説には坂田郡で6万石を賜ったといわれている。

秀村の発給した文書は坂田郡にとどまらず、浅井郡内の竹生島や菅浦にまでおよんでいる。こうして鎌刃城は単なる境目の城というだけではなく、戦国武将・堀氏の居城として湖北支配の拠点ともなった。

しかし、『当代記』によると天正3年(1574)に堀氏は突然改易され、これにともない鎌刃城も廃城となったとされる。






鎌刃城入り口





鎌刃城説明板





鎌刃城主郭





鎌刃城 石階段





鎌刃石垣





[滋賀県米原市番場1794−4]

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秀次居館(八幡山城) 滋賀県近江八幡市

八幡山館 説明板より
説明板より
山城部分とは別に築かれた南山麓の居館部分である。谷地形の中央部分、標高約130mの地点より雛壇状に曲輪が配されており、最上部に位置するのが秀次居館跡で、巨大な内枡形の食い違い虎口があり、その西側には二段、東側には四段の高石垣を構えている。秀次居館跡の石垣も隅部分は算木積みで積まれており、直接的に傾斜する。この部分の築石は部分的ではあるが、鏡石積みで八幡山城の石垣石材の中で、非常に大きな石が使われており、権威の象徴的に使用されている。居館曲輪の平坦地は、東西300m×南北100m余りの大平坦地となっており、山斜面を切り土と盛り土から造成されていることが発掘調査から判明した。下部の家臣屋敷曲輪は誰が居を構えてと思られる。



八幡山館 家臣団屋敷の石垣①
家臣団屋敷の石垣




八幡山館 秀次館への大手路
秀次居館跡への大手道




八幡山館 石垣
秀次居館跡の石垣・・・・この上が居館跡だが、藪が・・・・・・・・

長浜城・宮川陣屋・下坂氏館

長浜城・宮川陣屋・下坂氏館



下坂氏館跡は、滋賀県北部の長浜平野の南西部に位置し、東に伊吹山麓、西に琵琶湖を望む。館跡の北側に姉川を源とする五井戸川が流れ、自然堤防上の微高地で周辺を森に囲まれた小高い場所に位置している。
下坂氏は近江国坂田郡下坂庄の国人領主である。下坂庄は下坂中、大戌亥、高橋、下坂浜の四ヵ村からなっている。
 下坂氏は建武3年(1336)7月の足利直義からの感状を始め、佐々木氏・京極氏・浅井氏との関係を示す史料が存在する。特に天文11年(1541)頃から、京極氏や浅井氏との関係を示す文書が数多く出現し、天正元年(1573)浅井氏滅亡までの下坂氏との関係がよく分かる。これらの文献は697点に及び、下坂家文書として市の指定文化財となっている。
 下坂氏館跡の現在の遺構が室町時代に完成していたことが史料から分かるとともに地理的条件、占地、城郭の構造からみて、典型的な中世の平地城館遺構である。
 浅井氏滅亡以後は下坂氏は帰農するが、現在も館跡に居住し当主は下坂氏の子孫である。

遺構は、東西約89m、南北約87mの範囲において、高さ約1~2m、幅約2~5mの2重の土塁で囲み、幅約5~13m、深さ約1~3mの堀が現存している。南側で土塁、堀が失われているが復原が十分可能である。主郭は東西約55m、南北約42mの内側土塁によって囲まれ、その北東側と南西側の2つの副郭により構成され、南西側の副郭は一段高くなっており、武者たまりと考えられる。下坂家の伝承では、その副郭に有事の際に立籠もり、防戦につとめたと言う。内側土塁の東側に高さ約2m、幅約7mの虎口を設けており、東側平坦部の東西約75m、南北約45mの腰郭へと続く。また、下坂家の菩提寺である不断光院の東側に幅約5m、長さ約30mの土塁が現存しており、さらに南東部に土塁、堀が設けられていたと思われる。
 館内南東に下坂氏の菩提寺で木造入母屋造茅葺の不断光院の本堂と切妻造茅葺の門がある。古くは天台宗に属して西福寺と称していたが、後鳥羽上皇の皇子が当寺で薙髪して高雲山不断光院と称したのを機に寺名を改めた。観応年間(1350~1351)に再興され、浄土宗に転じ現在に至る。館中央に切妻造茅葺の門と木造入母屋造茅葺の主屋と主屋の北東と南西に屋敷社が祀られている。不断光院及び主屋の建築時期は18世紀前期と考えられ、門も同時期と考えられる。
 下坂氏館跡は室町時代の土塁、堀、主郭、副郭、腰郭の遺構が残っており、滋賀県下においても屈指の平地城館遺構である。下坂氏は京極氏との関係や浅井氏との関係上重要な存在であり、遺構の残りもきわめて良好で貴重である。

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宮川藩は、江戸時代に近江に置かれた譜代(ふだい)の小藩です。領主は、堀田氏といいます。堀田氏は、もとは上野国(こうずけのくに)吉井藩の領主でしたが、元禄(げんろく)11年(1698)に、移ってきました。参勤交代を行わない定府大名です。領地は、坂田・愛知・蒲生・甲賀の4郡1万石で、坂田郡宮川村(現:宮司町)に陣屋を置きました。

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1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。

同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館として運営されている

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