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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

岩村城 岐阜県恵那市

岩村城











大和の高取城(奈良県)備中の松山城(岡山県)と並ぶ日本三大山城の一つに数えられる名城です。城は江戸諸藩の府城の中でも最も高い所(標高717m)に築かれ、高低差180mの天嶮の地形を巧みに利用した要害堅固な山城で、霧の湧き易い気象までも城造りに活かされており、別名「霧ケ城」ともよばれています。 この城が名城と言われる由縁は、単にその規模と大きさだけでなく、その永い歴史に由来しています。1185年(文治元年)源頼朝の重臣「加藤景廉(かとうかげかど)」がこの地の地頭に補せられ創築されてから、鎌倉・室町の300年間、戦国の100年間、更に江戸期の300年間に亙り城と城主が連綿と続き、明治に至り廃城令で廃城されるまで、連綿と存続しました




岩村城 麓





岩村城 石垣





岩村城1





岩村城 霧ヶ井
霧ヶ井
元禄15年記録
雨の前後に忽然と霧に姿を潜め、あるいは霧を吐き出し見せる城は、女城主・織田信長・武田信玄・森蘭丸・秋山晴近等、永い歴史の中で主役を演じた人々や城普請に駆り出された名も無い多くの庶民や戦に散った兵士達の想いを優しく静かに包み込むように佇み、訪れる方を古に誘い込んでしまいます。

2012年7月

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苗木城 岐阜県中津川市

苗木城











中津川市内を東西に貫流する木曽川の右岸に一段と高くそびえる城山(432m)に築かれていました。木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約170mあります。岩山の上で利用できる土地の確保が困難であったため,建物の構築方法に懸造(かけづくり)が使われているなど,自然の地形を有効に生かして築かれた山城です。
築城時期については諸説があり定かではありませんが,大永・天文年間(16世紀前期~中期)に苗木の北方にある植苗木(うわなぎ)を拠点としていた遠山氏がこの地に移り住んだものと思われます。
その後戦国の動乱の中で遠山氏は苗木城を追われますが,関ヶ原の戦いに先立ち遠山友政が城を奪還し,以後江戸時代を通じ12代にわたり遠山氏が城主として治めました。





苗木城 城址碑





苗木城 1





苗木城 天守2




城の縄張りは本丸,二の丸,三の丸等に区分けされ,残っている城の絵図から17世紀の中頃には近世城郭としての苗木城の姿が完成していたと思われます。城の建物は明治4年に取り壊され,現在は石垣のみが遺されていますが,城門のひとつが苗木遠山史料館に保存展示されています。
苗木城跡の石垣の特徴としては,天然の巨岩を利用したり,また岩の上や岩を囲いながら積まれるなど,地形の制約を受けた積み方がみられることがあげられます。
苗木城の城域は,城郭の主要部である内郭部分が約2万m²,外郭部も含めると約35万m²に達します。そのうち156,774m²が,1981(昭和56)年4月,国の史跡に指定されました。
2012年7月登城





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府中城 岐阜県不破郡垂井町府中(安立寺)

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府中城は、現在の安立寺周辺にあったとされるが、遺構等は発見されいない。歴史についてもはっきりしたことは分かっていないが、一説には西美濃四人衆のひとり不破氏が居城としていたとされる。不破氏の出自については、百済系渡来人後裔説や源姓説など諸説あるが、不破氏府中城主説によると、その祖は山城国住人松井蔵人直家とされる。直家は鎌倉時代末期に不破郡府中村に移住し、不破氏を称したとされる。直家子孫の孫左衛門道広が戦国期に西保城に移るまで、不破氏は府中村に住したとされる。
この説が正しければ、府中城は西保城以前の不破氏の居城であったと推察される。




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竹中陣屋 岐阜県垂井町

岩手城と呼ばれていたが、江戸時代に竹中氏が旗本身分に留まったため城は陣屋と呼ばれるようになった。別名、竹中陣屋、岩手陣屋。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀)であった竹中重治の子である竹中重門が築いたものであるが、敷地を囲む大規模な堀(水堀など)と石垣などがあり、世に言う陣屋というものより小型の城と言ったほうが正しい。
元々、竹中氏の居城は堅固な山城である菩提山城(岩手山城)であったが、平時には不便なことから、麓に岩手城を築いたという。
現在その跡地は岩手小学校と民有地となっているが、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残っている。また入り口付近に竹中重治の像が建てられている。 判りにくいが、櫓門から北側へも道沿いの家の裏手に土塁が続いていて、岩手小学校裏、西側へと続いている。



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竹中本邸図





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垂井城 岐阜県垂井町

「 ここは関ヶ原合戦に活躍した西軍の武将平塚為広の居城跡と云われています。平塚為広は豊臣秀吉に仕え、1万2千石の垂井城主となりました。大谷吉継と西軍に属し、伏見城の戦い、大垣城の譲渡交渉などに活躍し、決戦当日には、病気の吉継に変わり、太谷隊を指揮しました。小早川秀秋が西軍を裏切り太谷隊へ攻めかかると、為広は大長刀を振り回し、小早川隊を再三追い返しましたが力尽き、山内の家臣樫井太兵衛に討たれました。敗軍の中、辞世の歌を大谷吉継に送っています。【 名の為に捨つる命はおしからじ ついにとまらぬ浮世と思えば 】 垂井町教育委員会 」とあります。明確な遺構がないため、正確な位置や規模などは不詳。文献などから垂井宿の西南方向にあると推定され、この地が周辺より高く城を築くのに有利なのでは?との推察から垂井城跡の比定地となっています。


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