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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・

福島正則屋敷 長野県上高井郡高山村

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福島正則屋敷、現在は中央に高井山高井寺となる




元和5年(1619年)、安芸・備後両国の大名福島正則が広島城の無断普請を理由に領地を没収され、この地に転封を命じられて居住した所である。高井野藩4万5千石(後に2万5千石を返上)の藩庁が置かれた。

屋敷は103m×70mの方形単郭の平城であったが、東北隅に高さ5mの土塁が残存するのみで、屋敷跡の中央には高井山高井寺(たかいさんこうせいじ)が建っている。[1]
現存する石垣は、安政年間(1854-1860)に高井寺が土塁や空堀を壊して修築の手を加えたものであり、往時の面影はない。
高井寺には、福島正則の遺品として肖像画、槍先、仏舎利、掛軸(正則の高井野での功績をたたえた絵伝)が伝えられている。



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[長野県上高井郡高山村高井197]

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福島正則荼毘所跡(屋敷跡から北西約500mの田の中に在ります)
病死した正則の死骸は7月の暑い盛りであったため、幕府の検死が済む前に荼毘に付したために、家禄は没収された。正則の威徳を偲んで、当時の住民により、この荼毘所跡に1本の杉が植えられ、以来300数十年、いつしかその地は「一本杉」と村民に呼ばれていた。一本杉は「傷をつけると血が噴出す」と長い間村人の間に伝承され、大切にされてきた。高さ30メートル、周囲9メートルの大木となっていたが、昭和9年の室戸台風で倒壊した。




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稲荷山城 長野県佐久市

稲荷山 公園の展望台
稲荷山公園の展望台 此方側の城山は公園及び宅地化により遺構は、ほぼ無と思われる!!



稲荷山城は武田信玄が信濃へ侵攻する際に宿城として利用していた城です。1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」の際、徳川家康は佐久地方の制圧に乗り出し、その際に軍事拠点として松平家忠に城の改修を命じています。また翌年に徳川軍が「第一次上田合戦」で真田昌幸に敗れた際にはこの城まで退却したと伝えられます。その後は小諸城主・松平康国が利用しましたが、徳川家康の関東移封に伴い廃城となりました。現在城址は「稲荷山公園」として整備されていますが、造成時に改変されており遺構は不明瞭です。




稲荷山 公園説明板





稲荷山 名前の由来の神社
稲荷山城の北側の稲荷社、こ北側が城の面影と思える!!




稲荷山 扇岡
稲荷山城 扇岡(本丸及び肥前郭等の写真は撮れていません)




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稲荷山城 公園から見た展望
公園から見た展望



[長野県佐久市勝間108−1]

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虚空蔵山狼煙台 長野県佐久市

改虚空蔵山狼煙台 遠景
道の駅「ヘルシ-レラス佐久南」から見た遠景、ハイキングコ-スが整備されています



佐久を制圧した武田氏がは村上氏を追って小県から川中島に進出し越後(新潟県)の上杉氏と対峙する一方、佐久を中継基地として上州(群馬県)に軍を進めていた。
本国との迅速な連絡の為に築かれた狼煙台である、山頂には狼煙の炊かれた痕跡は見られないが背後は土塁と堀切で固められ、堀切後方尾根上は幅5m長さ1000mにも及ぶ平らな削平地が有り、地元では直線馬場と呼んでいる。





[長野県佐久市根岸311]

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宝生寺山砦 長野県佐久市

改 寶生寺山砦遠景
道の駅「ヘルシ-テラス佐久南」から見た遠



前山城の北の守りの為に築かれた砦であろう。伴野庄の地頭となった小笠原長清の子時長は伴野庄に土着し伴野氏を称する。
時長は伴野館に住んだがその子長朝が前山を築城したとされる。やがて本城は前山城へと移され、戦国時代に入り強化される。
その頃に物見の砦と共に宝生寺山砦も築城されたと思われる。

小山上に、櫓台とも見える方形の台地を頂点に、南側には削平地を作りこれを取り巻き、東から西にかけて二段の腰郭が造られている。現在宝生寺は廃寺となり砦全体は藪化が進んでいるが削平された郭は確認できる。





[長野県佐久市伴野672]

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内山城 長野県佐久市






改 内山城 イメ-ジ図

㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




完 志賀城との位置関係2019





内山城は、永正年間に大井美作入道玄岑が築城したといわれている。戦国時代の城主は信濃国衆・岩村田大井氏。
甲斐国の武田晴信(信玄)は天文10年から信濃侵攻を開始し、『高白斎記』によれば天文12年(1543年)には信濃長窪城主・大井貞隆は武田方に捕縛された。貞隆の子息・貞清が内山城において抵抗し、天文15(1546年)には武田氏は佐久郡へ侵攻し、同年5月3日には内山城攻めを行う。『高白斎記』によれば、同年5月21日に貞清は降伏し、野沢(佐久市)へ退いた。『高白斎記』によれば、貞清は翌天文16年に武田氏に臣従した。
内山城代には一時大井貞清に任されるが、同年7月18日に武田家臣の上原伊賀守(小山田備中守、虎満)が城代となり(『高白斎記』)、虎満は死去まで佐久郡の郡代を務めている。天文17年(1548年)2月14日には、小県郡上田原における上田原の戦いにおいて武田方を撃退した村上義清は内山城を攻めたが、晴信は諏訪上原城から佐久へ出馬しこれを退けた。
天正10年(1582年)に武田氏が滅亡した後、天正11年(1583年)に徳川家康の麾下依田信蕃らによって攻略され廃城になった。






ここからが登城口
衣笠神社脇から内山城へ




内山城の主郭
内山城の主郭




南尾根の馬場の平
南尾根の馬場の平




水の手の井戸
水の手の井戸





西尾根 2本目の堀切
西尾根 2本目の堀切





園城寺の本堂
園城寺の本堂



[長野県佐久市内山5795]

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