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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

小田原城古郭(平野部) 2016改 神奈川県小田原市





北条早雲氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために作られた広大な外郭である。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の惣構を凌いでいた。慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いてこの総構えを撤去させている。地元地方の城郭にこのような大規模な総構えがあることを警戒していたという説もある。ただし、完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構が残る。古地図にも存在が示されており、小田原城下と城外の境界であり続けた。明治初期における小田原町の境界も総構えである。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。





八幡山東曲輪から見た近世小田原城(模擬)
八幡山古郭東曲輪から見た近世小田原城(模擬)




北条氏政・氏照墓所
北条氏政・氏照墓所




小田原城は中核部が二の丸総堀、三の丸総堀、総構堀によって三重に囲われた構造となっている。二の丸総堀は平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったものである。三の丸総堀は近世城郭部の三の丸堀に加え、南側の天神山丘陵の尾根を走る空堀、そして最西端の小峰大堀切によって構成される。小峰大堀切は中世城郭部最大の遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵、天神山丘陵、谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵と西側の山地部を切断している。総構堀は上述のように小田原の町全体をとりかこんだ、連続した空堀と水堀である。山地部の空堀は小峰大堀切よりさらに西の小田原城最高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部の桜馬場、稲荷森の総構堀は比較的よく残る。平地部の水堀は消滅、あるいは暗渠化したが、南西部の早川口や東部の蓮上院近辺に辛うじて土塁が残る。






蓮上院土塁
蓮上院土塁




幸田門跡改
幸田門跡 上杉謙信、武田信玄がこの門から攻めたとされる





早川口遺構
早川口遺構




三ノ丸外郭新堀土塁
三ノ丸外郭新堀土塁



小田原城を包囲する、豊臣方布陣
小田原城を包囲する、豊臣方布陣





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津久井城 神奈川県相模原市

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津久井城 縄張り図
*津久井城公式hpより






パ-クセンタ-・・陣屋跡
隣接する津久井湖はダム湖で、当時には無いことを理解する必要がある。城山に築かれた山城。南北の根小屋が残っており根小屋式城郭の端緒・典型とされている。ただし、最近の調査・研究の結果、山頂付近にも物見櫓や兵士駐屯のための建物が配置された形成も発見されており、落城前には、相応の防御能力があった山城であることが伺えるようになってきた。




津久井城 ジオラマ
津久井城 ジオラマ



鎌倉時代に三浦党の筑井氏が築城したと言われている。大江(毛利)氏の津久井三郎の居館として現在地の詰めの城と、同八幡社の行政舎が整備されたと言われる。本格的に城と使われ始めたのは戦国時代の後北条氏の時であった。この地は甲斐と小田原を結ぶ要所であるため武田軍と後北条軍が鎬を削ったところである。後北条氏は武田軍にそなえて、津久井城主の内藤氏らを中心に津久井衆と呼び守らせたが実際は「敵半地」と呼ばれ、半分は奥三保(現在の裏丹沢)などの武田氏の勢力下(小山田氏を盟主とする郡内衆)だった。
1569年(永禄12年)の三増峠の戦いの時は、武田側の加藤丹後によって押さえられて出陣できなかった。
1590年(天正18年)の小田原征伐の時には城主内藤景豊は小田原城にいたので、老臣等が守っていたが、徳川家康の武将平岩親吉らによる攻撃により6月25日に開城した。その後城は廃城となり徳川直轄領。近くに陣屋を置き八木家などの代官がこの地を統括した。




御屋敷跡
御屋敷跡 発掘調査後埋め戻されています




現在津久井城には、家老屋敷跡や宝ヶ池、堀切などが残っている。また、発掘調査が行われた根本・城坂の「御屋敷跡」では掘立柱建物や空堀、土塁、焔硝蔵などが検出されている。現在は主要部分が神奈川県立津久井湖城山公園となっており、ハイキングコースも整備されている。





家老屋敷の石積
家老屋敷の石積 主要郭にはこのような石積が在ったのだろうか・・・・・??




津久井城主郭
津久井城本城郭




不思議な場所の城址碑
不思議な場所の城址碑





大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )[神奈川県相模原市緑区根小屋127−5]

小松城 神奈川県相模原市

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小松城@樋口山城守与六
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




小松城は永井大膳大夫広秀の居城であったと伝えられる城です。片倉城の支城であったとされ、永井氏は片倉城主・長井氏の一族と考えられています。戦国時代には北条氏の支配下になり、津久井城の支城として、武田氏の侵攻に備えて整備されました。現在、館跡に建てられた宝泉寺の裏山が城址で、墓地から階段がのぼれるようになっています。
竪堀に堀切が良好に残るが郭は藪化しています又主郭の西側に説明板が有ります。





小松城遠景
小松城遠景、手前の寶泉寺が居館跡




小松城城址碑
小松城址碑




小松城 祠の在る郭2
祠の在る郭2、後方が主郭




小松城 主郭北側1本目の堀切
主郭北側1本目の堀切




[神奈川県相模原市緑区川尻4551−3]

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上の山城 神奈川県相模原市

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山の上城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図です(´・Д・)」




城址は比高20mほどの独立した台地である。この城についての歴史的詳細は不明である。



上の山城の入り口
上の山城の入り口




上の山城の探索道
上の山城の探索道




上の山城の主郭
上の山城の主郭*今回は雨天の為、主郭から、南側の遺構は見ていません。




上の山城 紫陽花




[神奈川県相模原市緑区寸沢嵐1852]

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伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市

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伏馬田城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(´・Д・)」





ここ菅井の尾崎原山頂(城山)には尾崎城(別名 伏馬田城)がありその城は後北条氏の家臣団内乙左近将監影定が津久井城主の時代に、狼煙台を兼ねた出城として津久井衆の一人で在った尾崎掃部助(尾崎掃部頭)が城主そして守っていた、この事から「尾崎城」と呼ばれている。

北条氏は、津久井を甲斐武田氏からの脅威を防ぎ止め、北武蔵進出への重要な拠点として確保する必要があった。
その為甲斐国に隣接している尾崎城が西の砦として軍事的重要な地であった。
又尾崎原は管や寺など大きな集落となっており、六つの街道が交差し交通の中心として大変栄えた。
*現地説明板より

周辺には保存会の方が建てた、名所旧跡を示す標柱が多く建てられこの場所が尾崎城の城下町で在ったと示しています。






伏馬田 ここから本格的な山へ
ここから本格的な山へ・・・・山蛭がいますので下山時は服装の確認を!!




伏馬田 稜線に出た所
稜線に出た所、右手に進むと遺構が現れます




尾崎城主郭
伏馬田城の主郭




尾崎城(伏馬田城)標柱
尾崎城(伏馬田城)標柱




尾崎城と尾崎原について
尾崎城と尾崎原についての説明板




[神奈川県相模原市緑区牧野11900−1]

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㊟駐車スぺ-スは有りません