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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

米沢市の城館を巡る ダイジェスト

先日行った、米沢の城館を1冊にまとめました


米沢市の城館を巡る





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羽黒神社館 山形県米沢市

上谷地館の北西200m、川井館の南100mに位置する羽黒神社は「山形県中世城館調査報告書」に城館として
登録されています。
歴史的詳細は不明、羽黒神社の有る場所が主要曲輪で北斜面に帯曲輪が残る。


羽黒神社館
羽黒神社館



羽黒神社館 曲輪
羽黒神社館 曲輪



羽黒神社館 羽黒神社社殿
羽黒神社館 羽黒神社社殿



羽黒神社館 斜面に帯曲輪が見える
羽黒神社館 斜面に帯曲輪が見える




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米澤城 山形県米沢市2017.6.11

戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて上杉景勝・上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式縄張りの城である[1]。10基の櫓と17棟の門が開かれた。上杉氏築城当時30万石の大名の居城であって、石垣や天守は構えられず、土塁を築き本丸に2基の三階櫓を建てて天守の代用としていた。
現在、本丸跡は上杉神社の境内となっており、また、二の丸跡には米沢市上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)がある。
また米沢図書館には享保10年(1725年)と文化8年(1811年)の米沢城城下絵図が所蔵されている。


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上杉家 初代上杉謙信公


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米澤城 本丸


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米澤城 三階櫓跡


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上杉家中興の祖 上杉鷹山



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米澤藩初代 上杉景勝と直江兼続



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上杉神社鳥居



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上杉神社社殿 旧本丸奥御殿跡



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松岬神社
上杉神社に上杉謙信とともに祀られていた上杉鷹山が松岬神社に分祀された。 大正元年、新殿造営、9月28日遷座祭を斎行し、県社に列し、新饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうぐしんじんじゃ)に指定される。 敷地は、景勝公御殿、のち世子御殿となった跡。 大正8年9月、郷社春日神社を合祀、大正12年上杉景勝が合祀され、昭和13年、米沢市制施行50周年を記念して、新たに直江兼続の功績を讃えて配祀。上杉鷹山公の師細井平洲先生、同重臣竹俣当綱(たけのまたまさつな)、莅戸善政(のぞきよしまさ)を配祀した。

米沢館山城 山形県米沢市2017

米沢館山城① 東館






米沢館山城② 南虎口から曲輪2







米沢館山城③ 曲輪3から南虎口へ







館山城2017
館山城 2016年に国史跡指定後初登城



館山城 東館跡
館山城 東館跡 数年前にはトレンチが幾つも有りました



伊達氏は鎌倉時代以来、梁川城(福島県伊達市)を約300年間本拠とし、年代に異説があるが南朝:元中2年/北朝:至徳2年(1385年)に長井氏を滅ぼして置賜郡(長井郡、長井荘とも別称)を領有した。16世紀に入り、伊達稙宗が天文元年(1532年)桑折西山城(福島県桑折町)へ居城を移し、更に伊達晴宗により天文17年(1548年)米沢城に移ったとされる。そして、伊達政宗が天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で岩出山城(宮城県大崎市)に居城を移した後、慶長5年(1601年)仙台城を築城して仙台藩が成立した。
この伊達氏の「米沢城」は、江戸時代に米沢藩上杉氏の居城となった現在の米沢城と同じものとされてきた。
伊達氏の諸記録によれば、天正12年(1584年)に伊達輝宗が館山城を隠居所としたが、居館の普請が終わるまでの間は重臣鮎貝宗重館に身を寄せて、翌年の完成を待って居住したという。また、天正15年(1587年)には政宗が改修を開始、しかし岩出山城への転封で廃城となった。館山は現在も、米沢から会津へ向かう街道の入り口である。


館山城 曲輪1、以前は曲輪の端しか歩けなかったような??
館山城 曲輪1、以前は曲輪の端しか歩けなかったような



館山城 主郭の桝形門跡、破城されたが石垣が発掘されている
館山城 主郭の桝形門跡、破城されたが石垣が発掘されている



館山城 曲輪2の物見台
館山城 曲輪3の物見台




館山城 曲輪2の土塁
館山城 曲輪2の土塁、巨大です(*ノωノ)



館山城 曲輪2と曲輪3間の堀切
館山城 曲輪2と曲輪3間の堀切



尾根先端の山城を中心として、山の北側と東側、南側の計3か所の居館が附属する。山城は東南の東館手前の大手口より、東西120m、最大幅65mの曲輪Ⅰを通って、東西60m、南北70mの方形に区画された曲輪Ⅱを本丸とされているが正確なことは不明である。東曲輪との境には枡形と土塁に縦掘があり、本丸西側には幅10-20m、高さ6mの土塁と深さ10mの堀切が、本丸北側には高さ3mの土塁がある。西側の堀切を渡った先に小規模な曲輪Ⅲが形成され、その南側の崖には物見台が置かれた。
館山城北館の調査では、整然と配置された中世の屋敷跡が発掘され、比較的長期間に渡って存在したことがわかった。出土品より、晴宗から政宗の年代にあたると推定されている。東館の調査では庭園跡と見られる遺構や石敷があり、高位の人物の居住跡と考えられ、中国産陶磁器などが出土した。2014年に主郭虎口付近より残存石垣が出土して伊達時代のものと注目を集めたが、この石垣に関しては、積み方から上杉時代に積まれたものと考えられるようになった。また染付などが出土したが、遺物の数は少なかった。いずれにしても伊達、上杉により使われた城跡で、遺構の面でも大堀切、枡形虎口跡などがよく残る貴重な城跡史跡である。2016年には国の史跡に指定された。




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成島館 山形県米沢市

成島館は、成島八幡神社一帯に築かれた館である、詳細不明だが城主は遠藤丹後守が伝えられる。
八幡神社の境内となっている広い曲輪が本丸で、陸続きの北と西に高土塁と空堀を設けている。虎口は西にあり、外側に枡形状の虎口がある。周囲に残る空堀で北側は空堀の底に仕切土塁があり二重空堀が残るが・・・・下草が多くて堀底まで見えませんでした。



成島神社
同社には43枚の棟札(むなふだ=建物の新築や修理の際、建物名・願主・大工名・年月日などを記して棟木に打ちつけた板)が残され、同社の歴史とともに置賜地方の歴史を知るうえで貴重な資料となっています。平成2年には米沢市の文化財に指定されました。
 この内最も古い棟札は、正安2年(1300)に置賜郡の地頭、長井宗秀が宝殿などを修理した時に納めたものです。さらに貞和4年(1384)、長井時春も宝殿を修理し、棟札を納めています。
 永徳3年(1383)6月1日の棟札は、伊達宗遠が拝殿を建てた時のもので、この頃すでに米沢地方の支配者が長井氏から伊達氏に移ったことを物語る貴重なものです。また、現在の拝殿は、この時新築されたものを、さらに何度か修理してきたもので、約610年前の建物となります。
 これ以降も伊達氏、上杉氏の歴代領主によって改築・修理・屋根の葺き替えが行われ、そのつど棟札が納められ、43枚と大変多い数となりました。
 この他、同社の古い歴史を物語るものに、県の重要文化財に指定されている門神坐像(もんしんざぞう)があります。本来は川西町の成宝寺にある僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)と一体となるもので、鉈彫(なたぼり)の素朴な技法が見られ、平安時代後期の作と考えられています。
 この頃には置賜郡に成島荘・屋代荘・北条荘と3つの荘園ができました。成島荘は米沢盆地の南西部、ほぼ現在の米沢市と川西町の一部を範囲とする荘園で、中心地は名前のとおり、成島にあったと考えられます。
 この成島荘の鎮守として祀られ、歴代の領主によつて手厚く保護されてきた成島八幡神社は、米沢では最も古い由緒を伝える神社といえます


成島館 成島神社鳥居
成島館 成島神社鳥居



成島館 成島神社も境内が主郭
島館 成島神社も境内が主郭




成島館 西側の虎口
成島館 西側の虎口




成島館 西側の堀
成島館 西側の堀・・・・・この時期はもう下草が多いですね('_')



成島館 虎口の先にも遺構が有るのだが
成島館 虎口の先にも遺構が有るのだが




成島館 社殿うらの堀だが、二重土塁だが見えません!!
成島館 社殿裏の堀だが、二重土塁だが見えません( ゚Д゚)




成島館 北側は公園となる
成島館 北側は公園となる


成島館遠景
成島館遠景



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