FC2ブログ
星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

石浜城 東京都荒川区

_DSC3208改石浜城遠景 石浜神社





石浜は浅草の北側にある古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称であり、この付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされている。築城年次は不明であるが、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え、文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を受けた足利尊氏がこの地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退けている。
室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛では、宗家の生き残りである千葉実胤(千葉兼胤の孫)が下総国を追われて扇谷上杉家の庇護下に入り、石浜城を拠点とした(武蔵千葉氏)。この際、弟の自胤も赤塚城に逃れている。だが、下総回復は達成できず、扇谷上杉家の没落後は後北条氏に従って同氏一族の千葉胤村を当主に迎え、豊臣政権の小田原征伐によって没落、石浜城も廃城となった。
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』に登場する。





石浜城説明板石浜城説明板





石浜神社 石浜城





石浜神社 鳥居井石浜神社 参道





石浜神社 拝殿石浜神社 拝殿





石浜城遠景石浜城遠景





城の所在地については、関東大震災以前に台東区橋場にあった総泉寺が武蔵千葉氏の菩提寺で、石浜城もその側にあったとされているが、荒川区南千住の石浜神社付近にあったとする説と、台東区浅草の本龍院(待乳山聖天)付近にあったとする説に分かれており、江戸時代以後の古利根川→隅田川の流路の変化や都市化の進展によって付近の地形も大きく変わっており、遺構なども見つかっていない。
「新修荒川区史」は、石浜神社の神官が千葉氏の一族である鏑木氏によって世襲されていることから、前者の説を主張している。「東京市史稿」は、「石浜城の跡今の金龍山にて、聖天宮なり」として本龍院説をとり、「大日本地名辞書」「望海毎伝」も後者の説を載せている。
中世を通じて同一の場所に石浜城があったのか、また城そのものの規模についても不明のままである。





[東京都荒川区南千住3丁目28−58]

大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

スポンサーサイト



江戸城見附 東京都

江戸城見附&史跡巡り











外濠(そとぼり)とは、かつての江戸城の堀のうちの外側のものの総称である。かつては水路で江戸城を取り囲み、また内濠や東京湾(江戸湾)ともつながっていた。現在は、外濠にほぼ沿う形で外堀通りが通っている。






外濠 牛込見附付近
牛込濠




筋違見附
筋違見附
秋葉原の万世橋付近に「筋違見附」があったと言われています。2006年まで万世橋のたもとには交通博物館がありました




牛込見附跡
牛込門(牛込見附)
JR飯田橋駅西口近傍に2基の石組みが保存されており、江戸三十六見附の中でも最もよく往時の形を遺しているもののひとつ。また、人目につきにくい場所ではあるが、牛込橋のたもとにあたる部分にも石組みが遺されている。




真田濠(四谷濠)
四谷濠(真田濠)
この部分はもともと台地であり、東西に延びる分水嶺の南北を繋げる形で開削して作られた人工の地形である。戦災の瓦礫により埋め立てられ[2]、現在は南半が上智大学のグラウンド、北半はJRおよび東京メトロ丸ノ内線・四ッ谷駅の敷地になっている




赤坂見附跡
赤坂見附
見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、江戸城には外濠および内濠に沿って36の見附があったとされている。赤坂見附はそのうちのひとつで、他に現在に名を残すものとしては四谷見附(四谷)、市谷見附(市ヶ谷)などがある。

赤坂見附は枡形門の形式で、これは江戸城の田安門、清水門などと同じである。現在の赤坂見附址にはこの城門は存在しない。現在見られる赤坂見附の遺構は、紀尾井町の国道246号沿いに残る石垣である





浅草見附跡
浅草見附
この浅草見附」は奥州街道、日光街道が通り、浅草観音への参拝者の通り道に当たることから、「浅草御門」と呼ばれ、警護の役人を多数配置していたことから「浅草見附」と呼ばれたと言われています。明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火の際に、浅草門警備の役人が囚人の逃走を防ぐため、この門を閉ざしました。そのために、江戸市民の避難路が断たれ、多くの焼死者と溺死者を出してしまったと言う悲しい歴史もあります。




弁慶濠
弁慶濠
ほぼ往時の形のまま現存している。傍らを首都高速新宿線が走る。濠の名は明治期に架けられた弁慶橋から命名されたもの







江戸見附三十六

米澤藩上杉藩邸跡 鱗屋敷 東京都

桜田門のすぐそばにあった米沢藩上杉家。霞ヶ関界隈で一際目立つ建物である法務省旧館赤レンガ、ここに米沢藩上杉家の江戸屋敷があった。米沢藩上杉家跡地を示す記念碑がある。

 警視庁の目の前に位置し、幕末には有名な「桜田門外の変」がすぐ目の前で起こっている。
逼迫する藩財政を倹約と特産品振興策などを行い、立て直し、名君と世界的にも名高い上杉鷹山、その藩財政改革の第一歩もここで案を練ったとされる。また、近くには時代劇などでも有名な大岡越前守の屋敷もあった


米澤藩上杉藩邸跡
米澤藩上杉藩邸跡




米澤藩上杉藩邸標識
米澤藩上杉藩邸記念碑





兼続は元和5年(1619)10月に病となり、その年12月19日に江戸鱗(うろこ)屋敷で病没しました。
妻お船も、兼続が亡くなってから18年後の寛永14年(1637)に、この鱗屋敷の地で81歳の生涯を閉じています。お船は、米沢藩の記録には兼続が亡くなった後も藩政に関する相談を受け、上杉家家臣の尊敬を集めていたとあります。お船は3千石の領地も与えられています。






鱗屋敷跡 直江兼続屋敷
鱗屋敷跡 直江兼続屋敷、一外様大名の家老に江戸城側に屋敷を与えられる事は異例と思える・・・・・兼続を評価していたのか??又は警戒していたのか??真相はいかに・・・・・・・・





向かい合う、屋敷跡
道路を挟み向かい合う、上杉藩邸上屋敷と兼続の鱗屋敷(外桜田門からの撮影)






大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

江戸城 東京都

江戸城










正門石橋と正門鉄橋 奥に伏見櫓
正門石橋と正門鉄橋 右手に伏見櫓(二重橋は正式名称でなく俗称です)





外桜田門
外桜田門 安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。





桜田濠
桜田濠 






大手門
大手門(三の丸大手門)は江戸城の正門で、諸大名はここから登城し三の丸に入りました。勅使の参向、将軍の出入りなどもこの門から行うのが正式だったそうです






天守台
慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。

 元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。
元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸改造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。
寛永の天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。







大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

八王子城&滝山城 ダイジェスト

八王子城&滝山城






八王子城城址碑 管理棟前


滝山城 本丸の城址碑


㊟今回八王子城は、太鼓曲輪と御主殿は行っていません又滝山城の山の神曲輪も行っていません