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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

杉山城 2019秋 埼玉県嵐山町

高低差を利用しながらおよそ10の郭を配置した縄張りです。本郭を中心に3方向へ郭を広げていきますが、塁線には折歪(おりひずみ)とよばれる敵方に対して見通しを悪くするための屈曲を多用し、虎口(郭の出入口)にはほぼ例外なく進入方向の側面から矢を射掛ける横矢が仕掛けられる等の防御施設が各所に見られます。
高度な築城技術が高く評価され、「築城の教科書」、「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」と評されており、平成29年4月6日に「続日本百名城」に選定されました。

嵐山町教委育会の発掘調査では山内上杉氏の築城とされました・・・・・しかし、それを受け入れる事は難しいと思われます。
本当にに此れだけの築城技術が在ったのか?後北条氏の改修は無かったのか?












杉山城 遠景





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杉山城 搦手


㊟車での際は、見学専用の駐車場出来ていますので校内に車で入る事は避けたのが良いと思います。

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葛浜氏館 埼玉県羽生市

南羽生駅の近くに鎮座する“神戸(かんべ)明神社”。かつてこの一帯を治めていた武蔵武士“葛浜氏”が、館を構えて住んでいたとされる。
南羽生駅北東に千眼寺がある、実はその山号を「那智山萬蔵院」と号す、いまや姿形はなくともそうはっきり記されている。
『新編武蔵風土記稿』によると、千眼寺が荒廃したとき、萬蔵院も同時に廃寺となったという。
そこで“乗良”という者が両寺を合わせた一寺を再興。そのため千眼寺の山号は「那智山萬蔵院」になったという。



千眼寺遠景
東武線の北側の千眼寺




葛浜氏館遠景

この萬蔵院跡が、神戸三郎(葛浜四郎行平)の館跡される、現在は個人宅となっているが広大な敷地に屋敷林が見える。
又萬蔵院は、神戸三郎(葛浜四郎行平)の妻が、夫の追福のために建てた寺だという。夫亡きあと“如意坊”と称し、その冥福を祈った。






[埼玉県羽生市神戸1042]

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忍城史跡巡り2019

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忍城は現在目に見える遺構は、ほぼ無くなっていますが随所にここには城が在った事を示す石碑が点在します
その石碑を纏めました。2019年改

(参考書籍 忍城史跡碑めぐり 行田歴史観光研究会 編著)



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石戸城 埼玉県北本市

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石戸堤の桜(城ヶ谷堤)





荒川の低地に突き出た舌状の台地に、室町時代長禄年間(1457~1460年)頃、扇谷上杉氏が築城した平城。1563(永禄6)年に上杉謙信が入城。江戸時代初めに廃城となったが、城の南に連なる家並は「宿並三十六軒」と呼ばれ中世の面影を残している。





完成 石戸城@ヤマシロ
石戸城 イメ-ジ図(北本市Hpを参考にしました)北本市では「石戸城跡保存管理計画及び石戸城跡整備基本計画」が有るので今後を楽しみにしています




石戸城 堤から道路が貫通一ノ郭は堤から道路が貫通





石戸城 2
右手側が一ノ郭、左手がニノ郭(私有地の為、、簡単には城址を探索できません。




室町時代長禄年間(1457~60)頃、岩付、松山、河越の各城との連絡のために築かれたものと考えられている。扇谷上杉氏の家臣藤田八右衛門の居城にはじまり、永禄6(1563)年に北条氏による松山攻めの時には、上杉謙信が松山城救援のため石戸城に逗留した記録がある。北条氏の松山攻めの前年、北条氏邦は、北条氏政の命により秩父・鉢形勢を率いて上杉方のこの城を攻め、時の城主毛利丹後守との間に激しい攻防戦を演じたことが「関八州古戦録」に書かれている。毛利氏の守りは固く、北条勢は多くの死傷者を出したが、この時氏邦は、暗夜に乗じて城の東側の谷地に一夜にして土橋を築き、一気に城へ攻め上って勝利したという伝承がある。この土橋が現在「一夜堤」と呼ばれている。「一夜堤」は、石戸城跡と谷を隔てた東側の台地とを結ぶ長さ45メートル、幅5メートルほどの堤で、自然散策の遊歩道として市民に親しまれている。




_DSC1285改一夜堤





_DSC1287改現地説明板







[埼玉県北本市石戸宿6丁目17]

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結城御殿 埼玉県鴻巣市

勝願寺石碑
勝願寺





勝願寺山門
勝願寺山門




牧野氏墓所
牧野氏墓所 徳川家譜代家臣。武蔵国足立郡石戸を治めていた牧野康成は伊奈氏と同様に家康から当寺の檀那になるように命じられた。康成の跡を継いだ牧野信成は領地替えのため石戸から下総国関宿、信成の後を継いだ牧野親成は関宿から丹後国田辺へと移り住んだが、その後も檀那としての関係を維持し続け、歴代当主は当寺に埋葬された。牧野氏の墓所は仁王門の向かって右手にあり、門扉には丸に三つ柏の家紋が記されている
(震災直後にも来ましたが、まだ修復されていないように思えます)






勝願寺 本堂
勝願寺本堂  江戸期の勝願寺の寺勢を象徴するものとして、本堂を中心とした伽藍がある。これは家康の次男・結城秀康が慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの論功行賞により下総国結城から越前国北の庄へ移封された際、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を移築したもので、さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された。これらの建物の移築は伊奈忠次が作事奉行として携わったと伝えられている。
御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ[、大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた。




勝願寺本堂3





本堂裏の竹林は土塁?
本堂裏の竹林は土塁・・・手前からですが土塁に見えます!!




本堂と墓地の境 土塁か?
本堂と墓地の境 土塁か?





仙石 真田氏の墓
小松姫
本多忠勝の娘で、信濃国上田藩主・真田信之の妻。生前、当寺の住職・円誉不残に帰依していたことから一周忌の際に分骨された。

真田信重夫婦
真田信之の三男で、母と同様に鴻巣で没したため当寺に埋葬された。また、妻は鳥居忠政の六女であり、夫の死の翌年に没したため当寺に埋葬された。

仙石秀久
信濃国小諸藩主。慶長19年(1614年)、国元へ帰る途中、当地で亡くなった。一旦、国元の歓喜院(後の芳泉寺)に埋葬されたが、遺言により当寺に分骨された




伊奈氏墓2
伊奈氏墓所  関東郡代。伊奈氏は徳川家康から当寺の檀那になるように命じられており、墓所の西側には伊奈忠治夫妻および伊奈忠次夫妻の4基の宝篋印塔が建立されている