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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・

養林寺館 群馬県前橋市

DSC_0002改 山門
養林寺は、鎌倉時代、大胡太郎実秀が浄土宗の宗祖法然上人に帰依し草庵を建てたことにはじまり、天正18年(1590年)、徳川家康家臣の牧野康成が二万石を以って大胡城主となると浄土宗無量山月照院養林寺を創建し菩提寺としました。養林寺は度々の火災によって堂塔すべて焼失しましたが、江戸時代初期の山門、境内墓地に牧野家の墓が残っています。




DSC_0021改養林寺館 堀

現地案内板などによると、堀は二重構造であったという。境内のさらに北西側のやや切通しになっている道路などは、二重堀の外側部分であったのではないかと想像される。

養林寺館はと大胡城すぐ隣接する位置にあり大胡城の支城とでもいうべきものの1つであった可能性が高い。
小田原の役の後、徳川家康の家臣牧野康成は、2万石での城主に封ぜられた。その際、この地が大胡太郎実秀の旧跡であることを知って、養林寺を建立したのだという。その際、この位置には出城のようなものが存在していたのであろう。また、牧野氏はこの寺院を菩提寺としたようで、現在も墓地内に牧野家の墓地がある。



DSC_0017牧野墓石
牧野氏墓所
牧野家墓地は、天正18年(1590年)から慶長9年(1604年)まで、大胡城主として大胡藩2万石を治めた牧野康成の墓ほか、康成室(妻)、康成の父成定、子の忠成など7基の墓が並ぶ江戸時代初期の大名墓です。
牧野康成は、弘治元年(1555年)、三河西尾の城主牧野成定の子として生まれ、徳川家康に仕え、酒井忠次に属して長篠の戦など家康の主要な合戦の多くに参戦し武功を重ねました。康成は天正18年の徳川家康の関東入府に伴って、江戸城の北辺の守りとして大胡城に入り、大胡城を近世の城に大改修を行い、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦では、中仙道を進む徳川秀忠の将として従軍しました。慶長9年に病のため家督を長男の忠成に譲り、慶長14年(1609年)に55歳で没し当寺に葬られました。
康成の子牧野忠成は、元和2年(1616年)に越後国頸城郡長嶺に5万石で転封となり、同4年(1618年)に1万石を加増され長岡に転封となり、牧野家は明治のはじめまで長岡藩を治めました。



DSC_0012改 供養塔
徳川家供養塔




群馬県前橋市堀越町1259   2013.8.3登城

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太田金山城 2019 群馬県太田市


新田金山の頂上にある山城であり、現在は、本丸跡とされている地点に新田神社がある。背後の斜面には石垣の一部が遺存しており、往時のようすを現在に伝える。関東平野を一望に収めることができ、西方は一段低くなっており「日ノ池」「月ノ池」がある。西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられている。 また南曲輪には中島飛行機の創設者である中島知久平の胸像が建てられている。
戦国時代の関東の山城には本格的な石垣普請の城はないという定説が発掘調査で覆されたほど多くの石が多用されている。






金山城大手口
金山城大手 ガイダンスセンタ-手前




見付出丸
見附出丸




大手道 何時整備に入るのだろうか
大手道 何時整備に入るのだろうか??発掘していた痕跡が・・・・!!




馬場下通路 復元
馬場下通路 復元前を見ているが・・・大夫手直しされている




復元された大手口
復元された大手虎口 全てが復元でわないが、かなり綺麗になっています




南城からの太田の街並み
南城からの太田の街並み




大ケヤキ 秋めいています
大ケヤキ 秋めいて、秋を実感出来ます




新田神社 実城
新田神社 実城 正面の石階段の右手にスロ-プが出来ています。




実城の石垣
実城の石垣 神社の裏側に残ります




[群馬県太田市金山町40−44] 登城2019.10.20

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館林城 総構 群馬県館林市







築城については、江戸時代になって書かれたもののなかに、赤井照光によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」として知られているが、現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471年)に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
「狐の尾曳伝説」とは、赤井照光が子ぎつねを助けたところお稲荷様の化身の白きつねが現れ、尾を曳いて城の配置を教えてくれたというもの。






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越後の上杉氏や甲斐の武田氏、相模の北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏、北条氏などが館林城を支配するようになったが、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となった。

江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり威容を誇っていたが、天和3年(1683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となった。
宝永4年(1707年)松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられた。






館林城城址碑
館林城城址碑




稲荷郭 尾曳神社
稲荷郭 尾曳神社




土橋門(復元)
土橋門(復元)




城下北西の土塁
城下北西の土塁




八幡郭 秋元氏別邸
八幡郭 秋元氏別邸





[群馬県館林市城町1−3]

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箕輪城 群馬県高崎市

箕輪城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




大手門跡から観音口迄





埋門跡からニノ丸迄






本丸から完





箕輪城は榛名山東南麓の丘陵上を中心に、北東と南西の平地部を含んだ戦国時代の平山城(ひらやまじろ)です。東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約36ヘクタール(史跡面積=約19ヘクタール)におよぶ西上野(にしこうずけ)の中核的な城郭です。北西から南東方向にのびる尾根上に主要な曲輪(くるわ)を直線的に配置し、さらにこれを核にして多数の曲輪を線対称状に配置しています。これらの曲輪を区画しているのは、本丸周囲を巡る最大幅40メートル、深さ10メートルに代表されるような広大な堀です。
西暦1500年前後に長野氏が築城し、その後4代にわたって長野氏の本拠でした。武田氏の西上野侵攻に際して、長野氏はこの箕輪城を本拠にして最後まで抵抗しました。永禄9年(1566)に武田信玄に落とされるとその後は、武田氏(1566~1582年)、織田氏(1582年)、北条氏(1582~1590年)、徳川氏(1590~1598年)と次々と主(あるじ)を変えましたが、その度に各大名の有力家臣が城主として配置されています。特に最後の城主井伊直政(いいなおまさ)は、徳川家康の家臣のなかでは最大石高の12万石で封じられています。その8年後の慶長3年(1598)、井伊直政は城を高崎に移し、箕輪城は廃城になりました。





箕輪 大手門跡
大手門跡




三ノ丸の石垣
三ノ丸の石垣




郭馬出門
郭馬出



大堀切
大堀切、井伊氏時代の改修か?




箕輪 本丸跡
箕輪城 本丸跡









[群馬県高崎市箕郷町東明屋676]

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勝保沢城 群馬県渋川市

勝保沢城





@樋口山城守与六勝保沢城
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/




赤城歴史資料館~宗玄寺一帯が城域である、しかし、大部分の遺構は消滅している・・・・・・・
勝保沢城主斉藤加賀守安清は、狩野筑前守安元とともに武州勝沼より一旅を挙げてこの地域の保護警備に移住し、北条氏の家臣となりて各地の合戦に参加して武功を立てた。加賀の妻は狩野安元の娘で斉藤加賀の武名は高く、関東一の勇者と称された。天正10年(1590)に浪人となり、城地の方一町を寄進して曹洞宗宗玄寺を開いた。







宗玄寺本堂
宗玄寺本堂




勝保沢城 主郭
主郭(歴史資料館裏手)




勝保沢城 主郭の堀
主郭の堀




勝保沢城 南の堀
主郭の南側、竹林側の堀




勝保沢城遠景
勝保沢城遠景



[群馬県渋川市赤城町勝保沢110−9]

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