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星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Photo Movie で見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

古城巡り 写真館

PhotoMovieにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
城エクスポ2019

唐沢山城2019 栃木県佐野市

唐沢山城改@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ









佐野市街地の北方約5キロメートルの唐沢山(247メートル)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された連郭式山城である。戦国時代において、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名で、上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませた。関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴である。続日本100名城に選ばれた。
現在は栃木県立自然公園の一部となっており、本丸に築城主と伝えられる藤原秀郷を祀る唐沢山神社が鎮座する。杉郭跡には栃木県唐沢青年の家が建てられたが、平成19年(2007年)3月31日閉所した。遺構として石垣、大手枡形、土塁、堀切、土橋、近世に復元された井戸などが残っている。





_DSC6737城址碑



築城は平安時代の延長5年(927年)に、藤原秀郷が従五位下・下野国押領使を叙任、関東に下向し唐沢山に城を築いたのが始まりとされる。 天慶3年(940年)平将門による天慶の乱が起こったが、秀郷らの活躍で乱を鎮圧した。この功績により秀郷は従四位、武蔵・下野両国鎮守府将軍を拝領した。 また、一説にはこの乱を鎮圧した天慶3年から築城が開始され天慶5年(942年)に完成したと伝えられる。その後、5代にわたりここに居城した後、6代成行は足利荘に移り一時廃城となった。
平安時代末期の治承4年(1180年)9代俊綱の弟成俊は再びここに城を再興し、佐野氏を名乗った。鎌倉時代に入った建保元年(1213年)成俊は30余年の歳月をかけて城を完成させた。
以上のような伝承がある一方で、最近の研究では唐沢山城の起源は15世紀後半までしか遡らないことが明らかにされている。秀郷築城が伝承された背景には、唐沢山城主の佐野氏の先祖が藤原秀郷であるからであるといわれる。
室町時代中期の延徳3年(1491年)には佐野盛綱が城の修築を行った。
戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩した。当初、越後の上杉謙信と結んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559年)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲された。謙信は即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させた。
唐沢山城(佐野)は謙信においては関東における勢力圏の東端であり、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線でもあったため、特に重要視されたと考えられている。
昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」と呼ばれる争いが起こった。これにより佐野氏は上杉氏と決別するに至った。天正4年(1576年)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵をもってこの城を攻めたが、一族の結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により上杉軍を撤退させた。それまでも9度にわたり上杉軍の攻城を受け、城主・昌綱は何度も降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた。この堅固さは評判となり関東一の山城と賞賛された。
上杉氏と決別し孤立化した佐野氏は、天正15年(1587年)に北条氏康の五男・氏忠を養子に迎え北条氏と和議を結んだ。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、当主の佐野房綱は豊臣方に付き城内の北条勢を一掃した。文禄2年(1593年)豊臣氏家臣富田一白の二男・信種を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り佐野信吉と名乗った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信吉は徳川家康方に付き3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立した。慶長7年(1602年)麓に佐野城が築かれ平安時代より続いた唐沢山城はその歴史に幕を閉じた。廃城に至った説として、江戸に火災があったとき、山上にある唐沢山城よりこれを発見し早馬で江戸に駆け参じたが、江戸を見下ろせる所に城を構えるは何たることかと家康の不興を買ったと言う話がある。また、江戸から20里(80キロメートル)以内の山城は禁令されていたとの説もある。






_DSC6702土櫓の石垣
土矢倉の石垣




_DSC6724権現堂付近堀切
権現堂手前の堀切




_DSC6811南東尾根土橋2
南東尾根土橋




_DSC6893北東尾根石垣
北東尾根石垣




_DSC6745南側は北条方を
天狗岩から、南側は北条方を




_DSC6747西側は越後方を
天狗岩から、西側は越後方を




_DSC6788南城の石垣
南城の石垣




_DSC6829本丸の高石垣
本丸の高石垣





二ノ丸から本丸を見上げる
二ノ丸から本丸を見上げる









[栃木県佐野市富士町1409]2019.9.24登城

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城之山城 栃木県佐野市

城之山城





改 城之山城
㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/





この城についての歴史的詳細は不明ですが、南に浅利城が在り北には要谷山城が在ります,
又彦間川を挟み向には正光寺城と須花城が在り足利が近い位置となる。





古い宝篋印塔
麓安養寺の古い宝篋印塔




西尾根 2本目の堀切
東尾根 2本目の堀切




西から見た主郭城塁
東から見た主郭城塁




城之山城 主郭
城之山城 主郭




南尾根 1本目の堀切
北尾根 1本目の堀切




佐野市城館リスト2
佐野市城館分布図(佐野市Hpより)




[栃木県佐野市下彦間町999]

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浅利城 栃木県佐野市

浅利城






浅利城@樋口山城守与六
浅利城跡は、閑馬小学校の北西にある浅利山に所在する山城です。山頂本丸周辺に削平地や堀切、石垣等が残ります。築城は、宝徳3年(1451)、佐野氏の一族の神馬七郎忠光とされ、天文15年(1546)に廃城になったと伝えられます。

331mの山頂からは、所在する閑馬地区一帯ばかりでなく、唐沢山城跡や佐野方面も見渡せます。また、ここから少し西側の尾根の頂からは、須花方面も眼下に望めます、帯郭が多く解りずらい城です。
勿論説明板や案内板は有りません、このエリアの城はこのような石積を有する城が多く、無名なのが驚きます!!
 






浅利城 遠景
浅利城 遠景 東尾根から探索へ




浅利城 東尾根の郭
東尾根の郭で、ここが大手桝形か?




浅利城主郭 何気に綺麗です
浅利城主郭 何気に綺麗です




浅利城 主郭の石積
主郭の石積 随所に石垣が残る




浅利城 石仏の郭
石仏の郭 物見台か?





[栃木県佐野市閑馬町975]

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要谷山城 栃木県佐野市

要谷山城







要害山城@樋口山城守与六
要谷山城跡は、標高約400mの要谷山に所在する山城です。主郭の周囲に石垣が今も残ります。山頂付近は東西約16m、南北約17mの規模で、主郭と周囲には曲輪が配置されています。山頂の複数個所に石垣が残されています。

築城については天正年間に小野高吉が築いたとされ、その後、足利長尾氏方の小曽根筑前守によって落城したといわれています。

戦国時代おいて、関東地方は土造りの城が多く、石垣等を有する城はあまりなかったようですが、本市域には他にも石垣や石積みを有する城跡が複数あります。このことは本市域の大きな特色です。







要害山城遠景
要谷山城遠景




要害山城 主郭
要谷山城 主郭




要害山城 石積
要谷山城 石積




要害山城 1本目堀切
1本目堀切




要害山城 2本目堀切
2本目堀切




要害山城 この城最大の堀切
2本目堀切






[栃木県佐野市飛駒町5201−8]

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千渡城 栃木県鹿沼市

千渡城





完成 千渡城@ヤマシロ




千渡城は宇都宮氏が敵対する後北条氏の圧力に耐え切れずに多気山城に拠点を移した際に支城として築かれたと思われます。
長年抗争を繰り広げた壬生氏の本拠・鹿沼城に対する備えとしての役目を担っていました。城主については宇賀地左京助または宇賀神新八郎なる人物であったと伝わります。
城は宇都宮氏滅亡と共に廃城になったと思われます





千渡城 遠景
千渡城 遠景 千渡城は上城とも言い、城址は宝性寺の境内となっている。方100mほどのこの寺院の周囲には深さ5m、幅8mほどの堀がぐるりと取り巻いている




南側の堀跡と思われる
南側の堀跡と思われる




寶性寺南側の堀
寶性寺南側の堀




寶性寺 西側の堀
寶性寺 西側の堀




城址 寶性寺本堂
城址に建つ 寶性寺本堂




[栃木県鹿沼市千渡355−1]


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