現在の城館・史跡を紹介して行きます!!そしてキャンプ覚醒へ・・・・・又動画の為の再び再登城を!!・・
御所ノ入 右手に「そば処御所ノ入」が有り、この道を直進した突き当りが館跡,数日前にも訪れましたがやっと場所を発見!!報恩寺(佐野房綱(天徳寺宝衍)の菩提寺)寺伝によれば、佐野に落ち延びた木曽義仲の子・清水冠者義高が名を佐野(岩崎)義基と改め、父祖の霊を弔うために一寺を建立し、栄西禅師を招請して開山としたことに始まるといいます。当時は如法寺と称しましたが、21世三伯玄伊和尚の時に報恩寺と改めました。佐野...
古代蓮の里 2018埼玉県行田市の天然記念物 行田ハスは、昭和46年(1971)、市の焼却場建設工事によって偶然掘り起こされ、その2年後に自然発芽・開花した約1,400年から3,000年前の古代ハスです。行田ハスは濃いピンク色の一重咲きの花を咲かせます。花径は25~28cmの大型種、花弁数は13~18枚と少なめ、横から見たつぼみは楕円形で、葉心角は120度~130度と小さいのが特徴で、植物学的に極めて貴重なものです。*時期的には、もう...
ルナ(ゴールデン)が亡くなり、8ヶ月・・・・・家の中が寂しくなった・・・・・ミルク(猫13歳・・・たぶん?)外にはクッキ-(犬12歳・・・たぶん)7月1日それは突然やって来た、突然ではないが我が家に新しい住人?住犬?・・・・・ル-シ(通称シェルティ-)生後3ヶ月ル-シ初日 20180701 玄関にてミルクとにらみ合い!!まだこれより先に行けない!!生意気なポ-ズ 先日の写真だが、だいぶ1ヶ月で大きくなりました。 ...
富田交差点を左に曲がったすぐのところに「富田宿本陣跡碑」(左)が建てられている。本陣を務めていたのは和久井家であった。現在は蔵を残し、以外の建物は新しく建て替えられている。例幣使街道徳川家康は死後、朝廷より神号「東照大権現」を下賜され、日光東照社に祀られ神となった。後、東照社は東照宮と改称する宣下を受け、朝廷臨時奉幣使が派遣された。以降、毎年家康の命日の祭礼に「日光例幣使」が派遣されることになった...
須藤城は須藤行貞によって築かれたという。行貞は、榎本城の小山高綱の重臣だったといわれる。城址は須藤農園後方の山林と竹林となるが、藪が凄く遺構が確認しずらい!!北側から見た須藤城、この辺りにもソ-ラ-発電の開発が!!北側の東西に延びる、堀と土塁郭内に残る、古い板碑...
回字形の城であったが、現在は宅地化が進み、大平西小学校の北側に往時をしのばせる土塁・空堀がわずかに残っている。佐野氏の一族がこれを築いたといわれる。小山系図によれば「藤井玄蕃頭秀利、1470(文明2)年、富田城に住み、富田氏を号す」とあり、この一族が居城していたらしい。1555~1557(弘治年間)年、城主富田左近は皆川領内を数度にわたって荒らしたため、皆川俊宗の兵700余騎に攻められ、二の丸に火をつけられて落城...
栃木県佐野市城館(平野部)*栃木県佐野市城館(平野部)のダイジェスト版です。松本丹波守館椿田城免鳥城阿曽沼城御所の入館佐野城...
館跡は金蔵院、藤田神社と佐野アウトレットの間とされる!!松本丹波館跡とされる風だが周辺はアウトレットの為開発が進み風景も変わっています、歴史的詳細は不明だが、佐野氏の家臣と思れる...
1633年、佐野領が彦根藩の領地に組み込まれ、1659年に佐野領を統治する陣屋として、堀米陣屋が設置された。 1853年には、井伊直弼が日光社参の際に立ち寄り、領内を巡視している。現在は宅地の為遺構は無・・・・・・・・・[栃木県佐野市堀米町163]大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )...
堀米有元は、新田義貞に従って転戦したが、1337年に越前の金崎城に籠って落城するも戦死。有元が戦死した後、堀米城は廃城となった。遺構は無。[栃木県佐野市堀米町1236]大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )...
浅沼八幡裏手に堀が残る阿曽沼城 城址碑阿曽沼廣綱が12世紀末に築城したとされています。廣綱は佐野有綱の子とされています。阿曽沼氏は中世前半に目覚ましい活躍をし、所領を拡大しています。戦国時代末期から近世初頭の古記録にも阿曽沼城を唐沢山城の出張(でばり)と記しています。その後、佐野氏の改易とともに阿曽沼城も廃城となりましたが、唐沢山城と関係の深い城跡です。城域の範囲は東西約180m、南北約230mと考えられます...
この周辺が館跡されるが遺構は明らかでない・・・・・・・・御所の入りの 蕎麦屋...
報恩寺 本堂報恩寺は妙光山と号し、本尊は行基作と伝えられる薬師如来像です。寺伝によれば、佐野に落ち延びた木曽義仲の子・清水冠者義高が名を佐野(岩崎)義基と改め、父祖の霊を弔うために一寺を建立し、栄西禅師を招請して開山としたことに始まるといいます。当時は如法寺と称しましたが、21世三伯玄伊和尚の時に報恩寺と改めました。佐野房綱(天徳寺宝衍)の菩提寺でもあります。佐野房綱の墓佐野房綱の墓所 報恩寺唐沢山...
免鳥城跡は、東に才川が流れる平城で、内堀としての水堀が水路として今も残ります。城域の範囲は東西210m、南北280mほどであったとされています。現在は、埋もれてしまい確認が困難な状況ですが、かつての本丸跡には古井戸があったとされ、平成17年に実施した店舗併用住宅建設による確認調査では井戸跡が実際に確認されました。免鳥城 堀跡免鳥城 城址碑築城は、大永5年(1525)佐野小太郎盛綱のときに免鳥山城守義昌によるとされ...
鎌倉中期、足利殖田太郎又は亀田伊賀守政綱が築城、文明年間(1469~87)まで存続したと伝わる旗川の東岸の台地を占め、複郭で在ったとみられ土塁の一部と堀が残るとされる!!羽田城 西側からの遠景羽田城の北側の土塁と堀だが城の遺構か?...