星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

福原城(鈴尾城)

永徳元(1381)年毛利元春の五男、広世長井氏を相続して六代の領主になり、父元春から福原村を譲られてこの地に移り住み姓を改め福原とした。
八代広俊の娘は毛利弘元の妻となり、長男興元が誕生し、次男元就は明応(1497 
年3月14日、母の里であるこの城内で誕生したという。
天文(一五四〇)年の群山合戦では十代広俊がこの守備にあたり西に備えた。
慶長五年(一六〇〇)年十三代俊弘は毛利輝元に従って周防に移ったが、この間七代二一九年間にわたる福原氏の居城であった。




福原城石碑

福原城 石碑



福原城は、別名鈴尾城とも呼ばれ毛利氏の群山城からも程近くまたそれ以外にも多くの山城が存在する。
城跡は、こじんまりと小さな城で麓から登ってすぐに広大な平坦な所が゜ありこの地が元就誕生の地として伝わっている。.
山頂の、本丸からは江の川、福原の田園広がっている。






福原城 説明板
福原城 説明板



福原城 主郭
福原城 主郭



福原城 井戸跡
福原城 井戸跡



福原城 遠景
福原城 遠景


㊟この写真は、大河ドラマ当時の物で、古い写真です(。>ω<。)ノ





[広島県安芸高田市吉田町福原118]

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南会津の冬2019 2/24~2/25

南会津の冬2019





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福島県南会津町の高畑スキ-場へ今年初にて今年最後のスキ-!!





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2月とは思えない快晴の天気






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今日はスキーバッジテスト(プライズテスト)の日・・・・・テクニカルにクラウン!!滑りの次元が違います!!










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朝は雪はしまり良いが・・・・時間とともに気温が上がり、雪面のコンデションは下り坂・・・・・・




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山頂から見える、会津高原たかつえスキ-場






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宿泊した「小豆温泉 花木の宿」





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宿の廊下に有った、久川城の想像図で城址公園となりますが冬は・・・・・・雪で埋没でしょう







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花木の宿に宿泊すると無料で入る事が出来る日帰り温泉「小豆温泉 窓明の湯」



「高畑スキ-場」

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「小豆温泉 花木の宿」

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小金城 千葉県松戸市

小金城図

小金城図(現地説明板より)



高20mほどの丘陵地帯にあり、古利根川、中川、荒川流域の低地帯を一望できる場所である。城域は東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城である。大谷口城、開花城、とも呼ばれる。
要害の城であったが、太日川(現在の江戸川)の要でもあったため、水運により城下は市が立ち並んで金宿(後の小金宿)が形成され、周辺の本土寺や東漸寺が領主高城氏の保護を受けて栄えるなど、軍事的にも経済的にも栄えた場所であった





金杉口 土塁
金杉口 土塁



大谷口 障子堀
大谷口 障子堀




千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏の居城である。原氏が室町時代の享徳の乱で上杉氏と対立関係に入った時期に、上杉勢力の下総侵攻を防ぐ拠点とするために重臣の高城氏を小金に配置したものと考えられている(金領(こがねりょう))。
小金城(大谷口城)は、天文6年(1537年)9月に高城胤吉によって築かれ、高城氏は根木内城より居城を移して、胤吉、胤辰、胤則と3代53年の居城となった。胤吉は城建設以前には近郊の栗ケ沢城、根木内城を根拠地として構えていたが、小弓公方足利義明の進出に対抗するために大谷口に新城を築城して移った。
永禄年間(1560年代)、古河御所を追われた古河公方足利義氏の仮御所の役目と、義氏に敵対する関東管領上杉憲政を擁立して関東へ侵攻した上杉謙信に備えて拡張が行われたものと考えられている。実際、永禄9年(1566年)2月には上杉方に小金城を包囲されたが、籠城して乗り切ることに成功している。
天正18年(1590年)の小田原征伐の際、後北条氏方の高城氏は後北条氏に従い小田原城に篭城し、豊臣氏方の浅野長政らに攻められ開城した。 その後、徳川家康の関東移封に伴い、穴山武田氏の名跡を継承し甲斐国河内領となっていた家康五男・武田信吉が入城する。信吉は文禄元年(1592年)に下総国佐倉城主として転封となり、小金城は文禄2年(1593年)に廃城となった。
北に金杉口、東に大手口、丑寅に達磨口、西に横須賀口、南に大谷口を設け、横須賀口には家臣を住まわせ、その規模・内容は稀にみる大がかりなもので、完成の祝宴も盛大であったという。以来、天正十八年の豊臣秀吉の小田原攻めで落城するまで、三代57年間に亘って栄えた。
高城・小金城落城後、大谷口周辺は徳川幕府方旗本の土屋氏が圧政ではなく大熊家や八木原家などの有力者と相携えて村人と融和し両者対立することなく村の統治を行った。





小金城 航空写真(石碑)
小金城 航空写真(石碑)




小金城 石碑
小金城 石碑





金杉口 畝堀
金杉口 畝堀





昭和40年代頃までは森林の中に遺構がほぼ完存していたが、重要な城跡にも関わらず、開発を推し進めた当時の行政や不動産会社により、現在ほぼ全域が住宅街となっている為、徹底的に破壊されたが、城跡の一部が大谷口歴史公園として整備されており、後北条氏関連の城跡で多く見られる畝堀や障子堀、土塁などの遺構が残る。また達磨口にはかつて引き橋が架かっていたと言われている土塁と堀切の様な場所が残り、馬場と呼ばれる付近にも土塁や空堀のの名残らしき物が有る。なお、昭和37年(1962年)および平成3年(1991年)に宅地造成に際して松戸市によって発掘調査が行われており、多くの建物跡、櫓跡、また鉄砲の弾や陶磁器などが発見されている。

1960年代ごろまでは本城への土橋と空堀が完全に存在していて、その写真は日本城郭大系に掲載されているが、現在残るのは金杉口、達磨口付近の遺構だけである。最も戦闘的な主要建造物を有した「本城」「中城」などは昭和三十九年の宅地開発により、現在は完全に破壊され跡形も無い。
近年(2010年代半ば)まで本城と言われる部分の所々に土塁が残っていたが、地元自治体が小金城の保存に興味が無い様で徐々に残る土塁が減りつつある。





小金城 達磨口跡説明板
達磨口跡説明板




小金城 達磨口2
小金城 達磨口



2011年11月19日登城
[千葉県松戸市大谷口179]

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根木内城 千葉県松戸市

根木内城 説明板

根木内城 説明板 根木内歴史公園



寛正3年(1462年)高城胤忠の築城とされるが(『高城家文書』『日本城郭大系』)、永正5年(1508年)高城胤吉の築城とする伝承もある(『小金城主高城家之由来』、ただし、同書の記述の前後関係から大永5年(1525年)の誤記とする説もある)。栗ケ沢城に代わる高城氏の拠点として機能し、天文6年(1537年)小金城を築いて移るまで、同氏の本拠であった。
富士川の支流により開析された谷に東西を挟まれた半島状台地先端に占地し、南端の台地繋がりを空堀で遮断し、その内部を城の内付近の郭を中心に大きく六つに区分する構造となっていた。また、大手から300m程南東に空堀及び土塁痕が近年まで残っていたと伝わり、城域は更に南に拡がっており、南北600mの規模を有したものと考えられている。
大手付近の郭と主郭の間には小郭が設けられており、更にその小郭と主郭の間に馬出し郭が設けられていた。また、大手、小郭虎口、馬出し郭それぞれを守る、空堀へ突出した櫓台が設けられ、台地繋がりの南方に向けて厳重な構えとなっていた。

比較的規模の大きな城であったが、現在は国道6号に分断され、国道北西側の遺構は目先の開発を優先した宅地化で完全に失われている。一方の国道南東側は、整備され、2006年4月22日に根木内歴史公園として開園した。空堀、土塁、郭等が良く残っている。




根木内城 空堀
根木内城 空堀



根木内城 郭
根木内城歴史公園



根木内城 説明板2
根木内城 説明板



根木内城  復元イメ-ジ図
根木内城  復元イメ-ジ図



根木内城 土橋
根木内城 土橋



根木内城 城塁





[千葉県松戸市根木内39−1]

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増尾城 千葉県柏市

増尾城 城址碑
増尾城 城址碑




増尾城現状測量図(現地説明板より)
増尾城現状測量図(現地説明板より)




増尾城は、高城氏の家臣・平川若狭守によって築かれたと伝わる城である。西と南に旧道が通っていたことから、両道の押さえとして築かれたものと考えられている。
大津川とその支流によって形成された舌状台地上に占地し、舌状台地全体が土塁と空堀を用いて二郭に区画されている。
舌状台地基部は空堀を用いて遮断されており、加えて郭内に土塁が設けられている。また、外郭土塁南端に櫓台突出しており、脇に開く虎口を防御し、空堀内への横射が可能となっている。この空堀は北側の腰郭状削平地に繋がり、腰郭は台地端まで伸びる。
全体的に遺構は良好に残る、一部が崩落しているが、土塁及び空堀が比較的良く残る。






増尾城 櫓台
城址公園に入り堀の先に見える、櫓台




増尾城 複郭への虎口
空堀から複郭(郭2)への虎口




増尾城 複郭には土塁が巡る
複郭(郭2)には土塁が巡る




増尾城 複郭の土塁
複郭(郭2)の土塁




増尾城 主郭への虎口
主郭への虎口




増尾城 主郭
増尾城 主郭




増尾城 主郭の土塁
主郭の土塁





2011年11月19日登城
[千葉県柏市増尾710] 増尾城址公園

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松ヶ崎城 千葉県柏市

松ケ崎城 説明板
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松ケ崎城 説明板




城跡は山林に覆われていて、遺構の残存状況は良好である。城跡周辺には、「竹ノ台」「本郷」などの小字が残されている。
松ヶ崎城跡は、半島状台地の南端を、土塁や堀で囲み曲輪とした、小規模な単郭の城跡である。曲輪は約60メートル四方の方形プランで、東と北、西の三方を囲む土塁を持ち、さらに土塁東と北の土塁の外側に顕著な堀が認められる。曲輪の南側、台地斜面上には、二か所の腰曲輪が並べて築かれており、その内西側の広い曲輪に倶利迦羅不動尊(三境の不動)が祀られていた(平成7年焼失)。





松ケ崎城 虎口





松ケ崎城 土塁と堀が見える
松ケ崎城 土塁と堀




松ケ崎城 空堀
松ケ崎城 空堀




松ケ崎城 2




郭内は平坦でなく、全体的に北から南へゆるやかに傾斜しており。内部はさらに南北に延びる土塁で区画されている。虎口は曲輪の東、北、西の三方の塁壁に設けられていたと思われる。曲輪の東側虎口は、古墳を利用したと思われる矢倉台状の構築物の北側に想定される。曲輪の北側虎口は、現在堀を渡り城内に至る土橋状の通路が認められるが、この通路に対応するように北側土塁の開口部が存在していて、この部分に設けられたと思われる。曲輪の西側虎口は、曲輪北西端に張り出し部が構えられ、そこから城外方向へ下る通路状遺構が確認されるため、この張り出し部に想定される。




松ケ崎城 門跡
松ケ崎城 門跡




松ケ崎城 1



松ヶ崎城跡のある松ヶ崎は、手賀沼の西端に位置し、応永26年(1419)4月7日付けの「香取社仮殿造営用途算用状」(香取神宮文書)には、香取社仮殿の瓦木が、相馬松崎より船で運び出されていることが記されている。また、城跡の東方、JR北柏駅の東側一帯、根戸の地には、中世の遺物・遺構を伴う中馬場遺跡、北ノ内遺跡、法華坊遺跡が存在している。





2011年11月19日登城
[千葉県柏市松ケ崎474−11]

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前ヶ崎城 千葉県流山市

 前ヶ崎城 入り口

前ヶ崎城 入り口


前ヶ崎城は、16世紀中葉から1590(天正十八年)頃まで、松戸市小金城を本拠とする高城氏の支城として機能したと考えられます。
 西・北・東側の三方を坂川とその支谷に囲まれた、標高16mの細長い台地上に立地し、水田面とは11mの比高があります。現在地から南160mと350mの二箇所に、かつて堀切りが存在していたといわれており、このことから3つの郭を直線状に配置した城と想定されています。付近には刑部郭・追手橋・馬場といった地名も伝承されていますが、城の施設と直接関連するかは不明です。
 公園として整備した範囲は城の中心となる主郭の部分で、西側は過去の道路建設によって失われていますが、東・西側には高さ3m~4mの土塁が、東側の一部と南側には深さ約3mの空堀が見られます。また、南サブエントランスは以前から土塁が途切れており、この部分を郭の出入り口である虎口に、その西側の最も高い土塁を櫓跡とする考えもありますが、郭の構造や建物配置は明らかになっていません。
『前ヶ崎城跡案内板』より






前ヶ崎城城域復元図(現地説明板より)
前ヶ崎城城域復元図(現地説明板より




前ヶ崎城 土塁
説明板から入った所の土塁



前ヶ崎城 土塁1
郭を巡る、土塁



前ヶ崎城
前ヶ崎城主郭・・・遺構的にはかなり消滅しています(公園部分のみ)



前ヶ崎城 空堀1
前ヶ崎城 空堀




2011年11月19日登城
[千葉県流山市前ケ崎410−12]

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花輪城 千葉県流山市

花輪城址公園が城址

花輪城址公園が城址




市内では深井城・前ヶ崎城・名都借城とともに存在した、中世城郭の一つです。十六世紀戦国期に松戸市小金の大谷口城を本拠地として、周辺一帯を支配していた高城氏に属する城でした。花輪城は高城氏が滅亡した十六世紀末には、その役割を終えたと考えられています。琵琶首観音堂は、かつて県道付近に本堂があった、真言宗西福寺境内の観音堂です。公園内に保存整備された、花輪城の空堀と観音堂の基壇・礎石が、当地の長い歴史を物語っています。
現地説明板より





雨の花輪城
手前に観音堂の基壇・礎石



花輪城 堀1
花輪城 堀1



花輪城 堀2
花輪城 堀2






2011年11月19日登城
[千葉県流山市下花輪1405−1]

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鷲野谷城 千葉県柏市

鷲野谷遺構 
香取神社周辺に土塁が残る




鷲野谷集落の東方、手賀沼南岸に向かって突出した標高20m前後の台地上にあったと伝える。
この地は、建武三年(1336)相馬親胤が領している(『相馬文書』)。戦国時代には高城氏の支配下にあったと推察され、城主はその家臣の染谷氏であったといわれる。今日、鷲野谷地区には染谷姓の旧家が多数点在しているという。
現在、台地は削平され原形を失っている。かつては字城山の地区に土塁・空堀・犬走りが存在していた(『日本城郭大系』『沼南町史』)。一方、城山の西方「星神社(妙見社)」の周辺には土塁・空堀・郭と見られる地形があった。一説に、この神社付近が本城で、城山は出城とされる






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香取神社の土塁




鷲野谷遺構 土塁2鷲野谷城遺構







鷲野谷遺構 堀
鷲野谷城遺構




鷲野谷遺構 星の神社主郭とされる、星神社





鷲野谷遺構 星神社の土塁星神社の土塁

箕輪城 千葉県柏市

箕輪城 土塁1
病院側の土塁




鎌倉時代、この地域の支配者は相馬氏であった。13世紀後半の「相馬胤村譲状案」には「後家分」として譲られた土地として「箕匂(みのわ)・薩摩(佐津間)・増尾」の地名が見える。応永年間の相馬氏の所領書上忠信状でも「みのわ」が見えるので、この間ずっと相馬氏の支配下にあったと思われる。しかし、現在見られる遺構は戦国期のものであり、戦国期にかなり手が加えられていると考えられる。「葛飾郡誌」では「戸張弾正の家臣高城伊勢守の城」であるとある。しかし、この表現は逆で、実際は戦国末期、北条氏の江戸衆の一員であった高城氏の家臣の戸張氏の城であったのではないか?





箕輪城 土塁2
駐車場の土塁





手賀大橋の西側、手賀沼を望む台地上にある。手賀沼病院建設や農地造成に伴い、発掘調査と測量調査が1981年、82年、86年に行われた。開発により遺構の西半分が失われ、東半分が山林中に残存しているという。城郭は東西約280メートル、南北約180メートルで、5つの郭から成っていたことが確認されたという。




箕輪城 ・・・・入れません!!
そして・・・・何やら伐採中の為に探索不能(2012年2月頃)





現在の箕輪城
現在の箕輪城2019年2月・・・・遺構はいかに?