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古城巡り 写真館

デジブックにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

続日本100名城

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

続日本100名城




続日本100名城は、数ある日本の城のうち財団法人日本城郭協会が2017年に定めた名城の一覧である。同協会が2017年に迎える設立50周年の記念事業の一環として、2016年に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募し、2017年4月6日の「城の日」に発表した。2006年に発表された日本100名城に続くものとして選定を求める声があった。選定は約500城の候補から6人の専門家が行い、前回100選で史実に即して復元されていないとして落選した城も選定された。


続100名城 表紙 忍城

と、いう事でスタンプを集めてみようかなと思い・・・・写真をまとめてみました。

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川路城(大坪城) 愛知県新城市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

設楽氏の主城で、築城年代は定かではないが応永の頃(1394~1427)という説がある。
戦国期、設楽貞通 は松平元康(後の徳川家康)にいち早く従属し、天正3年(1575)の長篠の戦いでは酒井忠次の部隊に参加、その後、徳川家康の関東移封に伴って武蔵国礼羽に移り、川路城は廃城となる。  川路城に隣接するようにして小川路城、端城 があるが、何れも川路城を本城とした出城である。城趾の近くに 「お鷹井戸」と呼ばれる井戸跡が残っている。 これは、歴代の城主が鷹狩の際の鷹の飼育にこの井戸水を使っていたという。





お鷹井戸の看板が有るが・・・・住宅の裏側に有り、道も無く???何処??
お鷹井戸の看板が有るが・・・・住宅の裏側に有り、道も無く???何処??




川路城 お鷹井戸
川路城 お鷹井戸




川路城の説明板と標柱
川路城の説明板と標柱




川道城城内の小川路稲荷
川路城城内の小川路稲荷


2018年10月28日 登城

小川路城 愛知県新城市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

築城年代は定かではないが、周辺地域を治めていた小川路右衛門が築城し、後年は川路城 の設楽氏の支城として使われ、設楽甚三郎や設楽兵庫の居城だったという。川路城(大坪城)はここからすぐ近くの所にある。





現在の小川城遠景
現在の小川路城遠景、奥に標柱が有る




小川路城の標柱
小川路城の標柱




小川路城標柱裏に残る土塁
小川路城標柱裏に残る土塁



2018年10月28日 登城

大久保兄弟陣所 愛知県新城市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

天正3年(1575) 5月21日の長篠の戦いで大久保忠世・忠佐兄弟が徳川軍の最右翼に布陣した所で、川路城 の南東150m程の連吾川沿いにある。
馬防柵外の大久保隊と、武田軍最左翼となる山県昌景隊の3千の騎馬隊によって、勝楽寺前激戦地 で戦いの火蓋が切られた。
そして、至近距離には川路城と小川路城が有ります。





大久保兄弟陣所 遠景
大久保兄弟陣所 遠景




大久保兄弟陣所 石碑





大久保兄弟陣所 石碑2
大久保兄弟陣所 石碑




長篠・設楽原古戦場 広域
長篠・設楽原古戦場 広域

徳川家康本陣跡 愛知県新城市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

天正三年(1575)5月、武田軍に包囲された長篠城を救援するため家康は織田信長と共に設楽原に出陣した。
家康はこの弾正山に本陣をおき、これより東約300m(東郷中学校の向こう側)を南北に流れる連吾川をはさんで、武田軍を迎え撃った。この地はまさに最前線である。
ここに家康が本陣を構え、多大な犠牲を払って戦ったのは、信長に援軍を頼んだいきさつがあったからだと思われる。






家康本陣跡と平成の馬防柵
徳川家康本陣跡と平成の馬防柵




徳川家康本陣跡の説明板





徳川家康本陣跡の石碑
徳川家康本陣跡の石碑




徳川家康本陣 いろはかるた





徳川家康本陣跡
徳川家康本陣跡 本陣跡には八剣神社が建つ

岡崎信康本陣跡 愛知県新城市

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1575年「長篠、設楽ヶ原の戦い」の際、標高90m、比高15mの丘陵端に岡崎信康が布陣した陣所とされる。
極楽寺本陣の1キロ程先に在り、後方隊の先鋒陣として石川数正、平岩親吉とともに布陣し、500m後方に織田信忠、その背後に織田(北畠)信雄が布陣した。
丘が松尾山陣所跡になり松尾神社の鳥居手前右手に「岡崎信康本陣地」の石碑が在ります。






岡崎信康本陣跡遠景
岡崎信康本陣跡遠景




岡崎信康本陣跡 説明板





岡崎信康本陣跡 神社
本陣跡の松尾神社




岡崎信康本陣跡石碑
岡崎信康本陣跡石碑

織田信長茶臼山本陣 愛知県新城市

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天正3年(1575)5月、織田信長は設楽原の戦いに備えて上平井の極楽寺で軍議を開き、武田軍の騎馬隊攻略の作戦を練った後、ここ 茶臼山に本陣を移し、すぐ北側に位置する牛倉のはたばこに側近の羽柴秀吉 を、最前線の弾正山に徳川家康 を配置して総指揮をとった。
新東名高速道路が出来てからは長篠設楽原パーキングエリア から行けるように きれいな道が整備されている。





茶臼山本陣 麓からの望む
茶臼山本陣 麓からの望む




茶臼山本陣 本陣看板





茶臼山本陣 茶臼山稲荷神社
茶臼山稲荷神社





茶臼山本陣 説明板1





茶臼山本陣 歌碑
茶臼山本陣 歌碑




茶臼山本陣 新城市が一望
茶臼山本陣から新城市が一望




長篠・設楽原の戦いの鈴木金七郎について
長篠・設楽原の戦いの鈴木金七郎・・・・・もう一人の岡崎へ使者

北畠信雄本陣跡 愛知県新城市

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1575年「長篠、設楽ヶ原の戦い」の際、標高88m、比高30mの丘陵上に織田〔北畠〕信雄、稲葉一鉄が布陣した陣所とされる。
織田信忠の後方200m程に位置する。
国道151号線新城東高校前信号交差点を北上し、突き当たりの右前に見える施設がサマリアの丘で、南面に北畠信雄本陣地の看板と石碑が在ります・・・・・しかし時期的か?下草や藪で本陣跡の看板は見ずらい!!




北畠信雄本陣 サマリヤの丘
北畠信雄本陣 織田信忠本陣からサマリヤの丘を望む




北畠信雄本陣 看板
本陣跡の看板と石碑 下草と藪で見ずらい




北畠信雄本陣 後方のいろはかるた場所
サマリヤの丘後方に新見堂山に本陣を置くとされ、説明板が有る




北畠信雄本陣 新見堂に有る説明板
比較的新し説明板

織田信忠本陣 愛知県新城市

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創建は明らかではないが、天正3年(1575年)5月21日、長篠設楽原の戦いの時、織田信長 の嫡男・織田信忠の陣所となり、信長が本陣を置いた茶臼山 の南側、家康の嫡男である岡崎信康 本陣地の後ろに位置する。 この時、信忠は若干19歳。
          代々をへん 松風さゆる 宮居哉  中将
設楽原決戦のとき、織田信忠はこの句を当社殿の羽目板に書き必勝を期した。 7年後に 設楽貞通 が社殿を再建した時これを棟札にしたという。





織田信忠陣地 遠景
織田信忠本陣 遠景




織田信忠陣地 神社
本陣跡は野辺神社




織田信忠陣地 説明板
織田信忠本陣 説明板




織田信忠陣地 石碑
織田信忠本陣 石碑




織田信忠陣地 神社2
野辺神社 拝殿

織田信長本陣極楽寺跡 愛知県新城市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

天正3年(1575)5月18日、長篠設楽原の戦いの時、設楽原に軍を進めた織田信長 はこの極楽寺山に本陣を置いた。極楽寺は戦の折に焼き払われ、今はその姿はない。 決戦を前にした軍議で、鳶ヶ巣山奇襲 の進言はここで行われた。




織田信長本陣跡極楽寺
織田信長本陣跡極楽寺跡



長篠・設楽原古戦場 広域
長篠・設楽原古戦場 広域

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