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古城巡り 写真館

デジブックにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

【新田荘遺跡】 群馬県太田市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

新田壮遺跡
新田荘遺跡 案内図


新田荘巡り 壱



新田荘巡り 弐




群馬県太田市にある荘園跡。新田荘は平安時代末期の12世紀中ごろに成立。源義国(源義家の子)を父とする義重が、現在の太田市西部の早川流域・石田川流域を再開発して19郷を支配下に置き、その後さらに39郷を開発して荘園化した。新田義貞は義重から数えて8代目にあたり、この地には1333年(元弘3)に義貞が後醍醐(ごだいご)天皇の命を受けて鎌倉幕府を滅ぼすために兵を挙げたとされる生品(いくしな)神社があり、1934年(昭和9)に義貞挙兵600年を記念して「新田義貞挙兵伝説地」として国の史跡に指定された。2000年(平成12)に史跡「新田荘遺跡」として、新田荘に関わる館跡を中心とした円福寺境内(別所町)、十二所神社境内(別所町)、総持寺境内(世良田町)、長楽寺境内(世良田町)、東照宮境内(世良田町)、明王院境内(安養寺町)、生品神社境内(新田市野井町)、江田館跡(新田上江田町)、反町館跡(新田反町町)、重殿(じゅうどの)水源(新田市野井町)、矢太神(やだいじん)水源(新田大根町)の11の遺跡が指定し直された。円福寺は新田氏4代政義が開いたと伝えられ、境内には一族の墓と伝わる凝灰岩製の五輪塔が20基ほど残っている。円福寺本堂の西側にある十二所神社は、創建年代は不明だが、本殿に安置される一木造りの神像16体のうち、5体には1259年(正元1)の銘がある。総持寺は新田館跡の一角に建てられた寺で、中世の堀や掘立柱建物、井戸などの跡が検出され、有力者の居館跡とみられている。長楽寺は新田義重の子、世良田(せらだ)義季(よしすえ)を開基とし、栄西の高弟を開山として1221年(承久3)に創建された、東日本最初の禅寺。江戸時代には徳川家康が祖先の寺として重視し、天海僧正を住職とした。その天海の発願で日光から境内に勧請されたのが、東照宮で、拝殿と本殿は重要文化財。明王院は新田義貞の居館跡とも推定され、不動堂に納められる小さな白金製の不動明王像は、鎌倉攻めのとき、山伏に化身して越後方面の一族にそのことを触れまわったという伝承がある。反町館は、義貞が居住したともいわれ、堀に水をたたえかつての館の面影を残す。江田館は鎌倉攻めでも活躍した江田行義の館と伝えられる

2012.12.23

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上原城 長野県茅野市

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上原城








完成 上原城@ヤマシロ

㊟イメ-ジ図になります


国武将の諏訪氏の居城。1466年(文正1)ごろ、頼岳寺の背後にある金毘羅山(標高978m)の中腹に居館を建てたのが起源で、その後諏訪氏は、甲斐の武田晴信(武田信玄)に滅ぼされるまでの5代70余年にわたり、この城を居城として諏訪一帯を支配した。1542年(天文11)に、晴信により諏訪頼重が滅ぼされると、諏訪一帯は武田氏の領国となり、上原城には重臣の板垣信方など諏訪郡代が入城した。武田氏に対して頼重が最後の抵抗を試みた桑原城(諏訪市)は、上原城に隣接する支城である。1582年(天正10)、織田信長と徳川家康の連合軍により武田氏が滅亡すると、上原城は廃城となった。城跡には主郭、土塁、二の郭、三の郭、曲輪(くるわ)、空堀、物見石などの遺構が残っている。なお、城山の麓にある頼岳寺は1631年(寛永8)、高島藩初代藩主の諏訪頼水が諏訪氏の菩提寺として建立した







上原城





上原城 入り口
上原城 入り口




上原城主郭
上原城 主郭




上原城からの展望上原城からの展望









2013.11.16 登城

桑原城 長野県諏訪市

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桑原城






完成 桑原城@ヤマシロ

㊟イメ-ジ図になります


諏訪惣領家の居城であった上原城(茅野市)の支城。標高981m、比高約190mの山の頂から尾根にかけて築かれていた城である。築城年代や築城者は不明。甲斐の武田晴信(のちの武田信玄)は1542年(天文11)、諏訪に侵攻して、諏訪頼重の本拠の上原城を攻めた。頼重は、この攻勢に上原城を支えきれず桑原城に逃れたが、多くの家臣が逃亡したこともあり、間もなく晴信に降伏した。これにより、桑原城は上原城とともに武田氏に接収された。降伏した頼重は弟の大祝諏訪頼高らとともに甲斐府中に連行され、頼高とともに東光寺で自刃させられて諏訪氏は滅亡した。城跡には現在、本丸跡、二の丸跡、土塁、空堀などの遺構が残っている。また本丸のある山頂からは諏訪盆地や諏訪湖が一望できる




桑原城 入り口
桑原城 入り口




桑原城 城址碑
桑原城 城址碑




桑原城 土塁
桑原城 土塁

2013.11.16 登城

高島城 長野県諏訪市

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高島城






高島城 模擬天守
高島城 模擬天守




諏訪郡の領主であった諏訪氏は現在の諏訪高島城の北方に位置する茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。諏訪氏の滅亡後、諏訪郡には武田家の譜代家老・板垣信方が現在の茅野市に所在する上原城に配置され、諏訪郡司となった。
天文17年(1548年)には上田原の戦いにおいて信方が戦死し、天文18年(1549年)正月には長坂虎房が諏訪城代となり、高島城へ入城した。『高白斎記』によれば、高島城は足軽大将の山本勘助により改修されたという。高島城の城代は虎房の後に吉田信生・市川昌房が務め、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで昌房が戦死すると、今福昌和が務める。高島城は武田氏による諏訪郡支配の拠点となった。


天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、甲斐国と信濃諏訪郡は織田氏の家臣・河尻秀隆が領し、諏訪郡には秀隆の家臣・弓削重蔵が配置された。同年6月の本能寺の変による「天正壬午の乱」の後、諏訪郡を領した諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。
高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。同時に上原城周辺にいた商工業者を移住させ、城下町の建設を開始した。
1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。江戸時代は諏訪藩の政庁であり藩主の居所であった。1786年(天明6年)に石垣などが補修されている。
寛永3年(1626年)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。南の丸を増設し、監禁場所とした。以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。
1871年(明治4年)廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用された。1875年(明治8年)に天守以下建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)高島公園として一般に開放され、1900年(明治33年)に諏訪護國神社が建てられる。




高島城 城域
高島城 城域


2016.11.16登城

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