FC2ブログ

古城巡り 写真館

デジブックにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

改 御所ノ入館(御所ノ入城・御所ノ入城砦) 栃木県佐野市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

_DSC4988御所の入り館1
御所ノ入 
右手に「そば処御所ノ入」が有り、この道を直進した突き当りが館跡,数日前にも訪れましたがやっと場所を発見!!



_DSC4986佐野房綱の墓2
報恩寺(佐野房綱(天徳寺宝衍)の菩提寺)
寺伝によれば、佐野に落ち延びた木曽義仲の子・清水冠者義高が名を佐野(岩崎)義基と改め、父祖の霊を弔うために一寺を建立し、栄西禅師を招請して開山としたことに始まるといいます。当時は如法寺と称しましたが、21世三伯玄伊和尚の時に報恩寺と改めました。佐野房綱(天徳寺宝衍)の菩提寺でもあります。



伝御所の入館入り口
伝御所ノ入館入り口 
目印は、そば処御所ノ入りを通り過ぎての突き当りで館跡前には二軒の家が有ります

伝御所之入館
二軒目のお宅の北側の山の麓が館跡で開けた削平で、清水八幡宮の祠と五輪塔が有り,ちょい立木で見えませんね!



東側に彦馬川が流れ、南方には報恩寺が在ります。詳細は不明ですが文治年間(1185~90)に岩崎(佐野)越前守義基が住んだと言われます。義基は源平合戦に際した木曽義仲と源頼朝の抗争に関連し、地元に伝承られている人物です。
吾妻鏡では、寿永2年(1183)木曽義仲は子である11歳の義高を頼朝のもとへ送ったとしています。そして寿永3年(1184)義仲が追討だれると、義高は鎌倉を脱出した後、武州入間川原で打ち取られたとされます。しかし、新合村郷士誌等では、義高が山形町の御所ノ入で佐野基綱にかくまわれ、基綱の一字をもらい義基と名乗たとし、その後に岩崎や吉水に住んだとしています・・・・
・・・・・・又佐野市西部を拠点にした岩崎氏、鳥居戸(とりいど)氏に関して地域の古文書に「木曽ノ直伝」とあり、西佐野に木曽の流れを引く一派がいた可能性があると思われる・・・真相はいかに!!





清水八幡宮 祠
木曽義仲の子・清水冠者義高を祀る清水八幡宮の祠



源義高供養塔伝
義高の墓と伝えられる五輪塔で地元では「御所様の墓」と呼ばれている
この五輪塔は比較的大型で安定感を有し、市内の五輪塔の中でも最古の物であることが推測される。

参考書籍 「佐野の城舘跡より」
2018.7.29改





スポンサーサイト

古代蓮の里 2018

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

古代蓮の里 2018









埼玉県行田市の天然記念物 行田ハスは、昭和46年(1971)、市の焼却場建設工事によって偶然掘り起こされ、その2年後に自然発芽・開花した約1,400年から3,000年前の古代ハスです。
行田ハスは濃いピンク色の一重咲きの花を咲かせます。花径は25~28cmの大型種、花弁数は13~18枚と少なめ、横から見たつぼみは楕円形で、葉心角は120度~130度と小さいのが特徴で、植物学的に極めて貴重なものです。



*時期的には、もう終わりでした・・・・・・
_DSC5067.jpg





_DSC5081.jpg





_DSC5101.jpg




_DSC5106.jpg
この展望台から、田んぼア-トを見ます、下からだと全然分かりません!!




_DSC5091.jpg
「大いなる翼とナスカの地上絵」だそうです

やって来た、ル-シ 20180701

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

ルナ(ゴールデン)が亡くなり、8ヶ月・・・・・家の中が寂しくなった・・・・・ミルク(猫13歳・・・たぶん?)外にはクッキ-(犬12歳・・・たぶん)
7月1日それは突然やって来た、突然ではないが我が家に新しい住人?住犬?・・・・・ル-シ(通称シェルティ-)生後3ヶ月






ル-シ初日
ル-シ初日 20180701








0A06AC51-BA58-40C5-BE74-4A796B30F84B.jpg






34AA5E2F-7397-4AC5-BDED-6064EB0E0A3F.jpg





ル-シ-2
玄関にてミルクとにらみ合い!!まだこれより先に行けない!!






ル-シ-4
生意気なポ-ズ 先日の写真だが、だいぶ1ヶ月で大きくなりました。 

富田宿本陣 栃木県栃木市大平町富田

Posted by 樋口山城守与六 on   0 


富田交差点を左に曲がったすぐのところに「富田宿本陣跡碑」(左)が建てられている。本陣を務めていたのは和久井家であった。
現在は蔵を残し、以外の建物は新しく建て替えられている。





IMG_0364.jpg



IMG_0363.jpg



例幣使街道
徳川家康は死後、朝廷より神号「東照大権現」を下賜され、日光東照社に祀られ神となった。後、東照社は東照宮と改称する宣下を受け、朝廷臨時奉幣使が派遣された。
以降、毎年家康の命日の祭礼に「日光例幣使」が派遣されることになった。
「日光例幣使街道」とは、金幣を奉納するために京の勅使が東照宮に向かう際に通った道である。中仙道倉賀野宿(群馬県高崎市)を起点とし、ここより例幣師街道という。楡木宿(栃木県鹿沼市)に至り、今市で日光街道に合流する。楡木から先は壬生街道が合流するので、楡木、今市間は正確には壬生街道(国道293~121号)だが、一般に例幣使街道と呼ばれてきた。この区間にも日光杉並木が現存する。例幣使街道は往路に用いられ、復路は日光街道、東海道が利用された。日光例幣使は、1647年から明治維新前年の慶応三年1867年まで221年間休むことなく日光に派遣された。

IMG_0365.jpg

須藤城 栃木県栃木市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

須藤城は須藤行貞によって築かれたという。行貞は、榎本城の小山高綱の重臣だったといわれる。
城址は須藤農園後方の山林と竹林となるが、藪が凄く遺構が確認しずらい!!



IMG_0360.jpg
北側から見た須藤城、この辺りにもソ-ラ-発電の開発が!!





IMG_0357.jpg
北側の東西に延びる、堀と土塁



IMG_0358.jpg



IMG_0353.jpg
郭内に残る、古い板碑

富田城 栃木県栃木市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

回字形の城であったが、現在は宅地化が進み、大平西小学校の北側に往時をしのばせる土塁・空堀がわずかに残っている。佐野氏の一族がこれを築いたといわれる。
小山系図によれば「藤井玄蕃頭秀利、1470(文明2)年、富田城に住み、富田氏を号す」とあり、この一族が居城していたらしい。
1555~1557(弘治年間)年、城主富田左近は皆川領内を数度にわたって荒らしたため、皆川俊宗の兵700余騎に攻められ、二の丸に火をつけられて落城したといわれている

IMG_0366.jpg




IMG_0369.jpg
校門前に建つ、城址碑





IMG_0371.jpg
城址となる大平西小学校、南側宅地開発の為遺構は消滅か??以前は堀跡が有ったのだが・・・・・・






IMG_0368.jpg
小学校北側に残る土塁

栃木県佐野市城館(平野部)

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

栃木県佐野市城館(平野部)






*栃木県佐野市城館(平野部)のダイジェスト版です。



_DSC4951松本丹波館
松本丹波守館


_DSC4958椿田 遠景
椿田城




_DSC4973 免鳥城 城址碑
免鳥城




_DSC5009阿曽沼城
阿曽沼城





_DSC4988御所の入り館1
御所の入館




_DSC5016改
佐野城

松本丹波守館 栃木県佐野市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

_DSC4948松本館 金蔵院
館跡は金蔵院、藤田神社と佐野アウトレットの間とされる!!




_DSC4951松本丹波館
松本丹波館跡とされる風だが周辺はアウトレットの為開発が進み風景も変わっています、歴史的詳細は不明だが、佐野氏の家臣と思れる





_DSC4953松本館 佐野アウトレット

堀米陣屋(彦根藩陣屋) 栃木県佐野市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

1633年、佐野領が彦根藩の領地に組み込まれ、1659年に佐野領を統治する陣屋として、堀米陣屋が設置された。
 1853年には、井伊直弼が日光社参の際に立ち寄り、領内を巡視している。現在は宅地の為遺構は無・・・・・・・・・




_DSC5001堀米陣屋



[栃木県佐野市堀米町163]

大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

堀米城 栃木県佐野市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

_DSC5000堀米城


堀米有元は、新田義貞に従って転戦したが、1337年に越前の金崎城に籠って落城するも戦死。有元が戦死した後、堀米城は廃城となった。遺構は無。




[栃木県佐野市堀米町1236]

大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

該当の記事は見つかりませんでした。