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古城巡り 写真館

デジブックにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

湯西川温泉 平家落人の里

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

久しぶりの湯西川温泉へ・・・・・・・以前来た際には湯西川の落人に関する史跡を見ていなく、今回が初めてになります。
湯西川へは今市方面からと塩原温泉方面からの二通りが有り国道121号線から五十里湖沿いに走り湯西川の道の駅方面に向かうと10K位で「平家落人の里湯西川温泉」に着きます。

たぶん道が新しい道が出来ていました、旧道は狭く渓谷沿いを行くのでかなりクネクネした記憶が有りましたが・・・・・道幅が広く快適に行くと湯西川温泉となる!!



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蝶は、同種であっても羽化する時期で翔の形や斑紋まで違う。まさに造化の神秘。この蝶をもっともみごとに文様に採り入れたのが平家の公達であった。彼らは鎧や兜の裾金物や、直垂などに蝶の文様をつけた。「平家物語」や「源平盛衰記」などにさかんに出てくる。これらの文様が後に家紋に転化していった。ことに平清盛流の者が多用したので後世、蝶は清盛流の代表紋になった。しかし、その美しさで他の家も多く用いている。(丸に揚羽蝶)



まず最初は湯殿山神社は、社殿はこじんまりしているがここが「平家大祭」のスタ-ト地
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「平家大祭」は、今なお平家落人の伝説が残る湯西川温泉ならではの祭り。平家の武者や姫に扮した総勢200名余が練り歩く『平家絵巻行列』は、じつに荘厳。また琵琶演奏や雅楽など、平家に関する催しが繰り広げられ、いにしえの栄華がよりがえります。
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平家集落 風情ある集落が湯西川沿いに続く湯西川温泉来たらここは是非歩きたい所。河原に無料の露天風呂や歴史を感じる公衆浴場、慈光寺、平家夫婦石等平家の隠れ里が色濃く残ります。
平家集落 2




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集落を見渡す高台に位置する慈光寺は、平家落人の菩提寺と伝わり、子宝を授かろうと落人たちが参拝しに来たとの逸話も残っている。




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山門脇の平家夫婦岩




湯西川平家一門の守護神である。建久年間(1190~99)に創建され永正元年1504改築。祭神は高房大明神

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平家の里脇の「平家塚」 東国に都落ちした平家一族は霊峰 鶏頂山(栃木県日光市にある標高1,765mの火山)に身を隠していた。そこで男子が生まれたが、喜びのあまり揚げた幟や鶏の鳴き声によって源氏に発見され追討を受けた。平家一族は湯西川へ落ち延び、安住の地と定めたため武装を解除し、甲冑や刀剣をこの塚に埋めたという。以来、子孫が平家塚と称し、保存と伝承するに至っている。
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「復元 平家の里」 落人たちの生き様や生活様式は、多くの秘話・伝説に満ちています。それらを後世に永く保存伝承する拠点として、復元されたのが平家の里です。
平家の里 0618朝





平家の里 3





平家の里 4



「湯西川赤間神宮」  、昭和60年に下関赤間神宮から勧請した、湯西川赤間神宮が建立されている。下関赤間神宮は安徳天皇の菩提寺である。 (安徳天皇:第81代で高倉天皇の第一皇子。母は建礼門院。平清盛の孫にあたる)
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そしてここが今宵の宿「桓武平氏ゆかりの宿 平家の庄
玄関前の門





玄関
下野の古民家を再生した趣のある宿です!!渓流沿いの露天風呂が又良い!!

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平家落人の里  栃木県日光市湯西川

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

平家落人の里 湯西川







平忠実もしくは平清定の子、平景定が落ち延びたとされる。湯西川の平家の落人伝説は現地の平家落人民俗館や平家の里などでも紹介されているほか、平家大祭などの行事も行われている。湯西川温泉では積極的に落人伝説を観光業に活用している。
平家の者であることを悟られぬよう苗字を「伴」とした。「伴」の人偏は人を表し、右の半は上部の点を半の横線の間に移し、半の一番上の横線から飛び出た部分を消すと「伻」という字になる。つまりは「平の人」ということを意味し、平家血縁者であることを示す。現在も「伴」という苗字の平家の子孫がこの土地に存在している。
独自の風習として、端午の節句にもこいのぼりを揚げない・たき火をしない(煙を立てない)・犬を飼わない・鶏を飼わないなどがある。これらは人が山中に暮らしていることを外部にかぎ取られないためである。



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「蝶 紋」 蝶は、同種であっても羽化する時期で翔の形や斑紋まで違う。まさに造化の神秘。この蝶をもっともみごとに文様に採り入れたのが平家の公達であった。彼らは鎧や兜の裾金物や、直垂などに蝶の文様をつけた。「平家物語」や「源平盛衰記」などにさかんに出てくる。これらの文様が後に家紋に転化していった。ことに平清盛流の者が多用したので後世、蝶は清盛流の代表紋になった。しかし、その美しさで他の家も多く用いている。




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湯西川平家一門の守護神である。建久年間(1190~99)に創建され永正元年1504改築。祭神は高房大明神。



平家の里 0618朝
平家残党の生活を再現した「平家の里」では数々の資料も展示。近くには平家落人民族資料館もあり、平家物語絵巻などの貴重な資料が展示されています。



平家の落人により集落が築かれたといわれ、平家落人の伝説が残る湯西川温泉。平家落人の生活様式を後世に残すため、村内の茅葺き屋根の民家を移築し再現した民族村です。平家が源平の戦に敗れてからちょうど800年目の昭和60年に建てられました。6月に行われる平家大祭の見どころは、鎧兜の武者や雅びやかな姫が湯殿山神社から平家の里までの約2kmの道のりを練り歩く平家絵巻行列。










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平家塚 この地に逃れてきた平家の落人たちが、武器や宝物を埋めたと伝えられているのが平家塚です




平家集落 2
平家集落

山梨県北杜市 城館 ダイジェスト

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中山砦 笹尾塁 深草館 谷戸城 獅子吼城 若神子城







*中山砦 笹尾塁 深草館 谷戸城 獅子吼城 若神子城のダイジェスト版




完成 中山砦@ヤマシロ





完成 笹尾塁@ヤマシロ





完成 深草館@ヤマシロ





完成谷戸城改@ヤマシロ





完成 獅子吼城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ

山梨県北杜市 屋敷 ダイジェスト

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北杜市屋敷跡







山梨県北杜市屋敷ダイジェスト

教来石氏屋敷 鳥原屋敷(教来石民部屋敷) 曲淵氏屋敷 馬場美濃守屋敷
横手氏屋敷 一条氏屋敷 柳沢氏屋敷 実相寺館

笹尾塁(笹尾砦) 山梨県北杜市

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笹尾塁(笹尾砦)









完成 笹尾塁@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります



信濃(長野県)との国境に近い、釜無川の左岸の七里岩の断崖上(標高759m、比高110m)に築かれていた山城(やまじろ)である。西側は七里岩の断崖絶壁、東側は深い溺れ谷の城沢にはさまれた要害で、塁(砦)と呼ばれるものの、6つの曲輪(くるわ)を持つ東西80m、南北260mの本格的な城塞だった(ただし、現存する城跡は武田氏滅亡後に、北条氏が整備したものとも考えられている)。甲斐の武田氏をはじめ常陸の佐竹氏、信濃の小笠原氏・平賀氏、陸奥の南部氏などの祖となった新羅三郎義光(源義光)が他国からの侵攻に備えて家臣に築かせた砦ともいわれるが確証はない。また、その築城の経緯は明らかにはなっていない。笹尾塁が歴史に登場するのは、甲斐守護・武田信虎(信玄の父)による甲斐統一前夜のことである。信虎は1530年(享禄3)、扇谷上杉朝興の叔母で山内上杉憲房の後室を側室に迎えて、扇谷上杉氏との関係を強化して北条氏と対抗しようとした。信虎はこれに反対した奉行衆の今井信是、信元と対立して、信是と信元は翌1531年(享禄4)1月、飫富兵部少輔らとともに甲府を去って御岳に立て籠もった。この反信虎陣営に有力国人の大井信業・栗原氏らが加わり、さらに信濃の諏訪頼満(碧雲斎)に援軍を求めたことにより大規模な争乱へと発展した。信虎はこれに対抗するため笹尾塁を取り立てて整備し、諏訪下社牢人衆(諏訪氏と対立する諏訪下社の金刺氏とも推定されているが不明)に立て籠もらせたという。しかし、笹尾塁は諏訪軍の侵攻により戦わず陥落。反信虎勢力は府中に進軍した。ピンチに陥った信虎は出陣して、翌2月2日の合戦で乾坤一擲の勝利を収めて大井信業らを敗死させ、3月3日の韮崎河原辺の合戦では栗原兵庫ら800余人を討ち取って壊滅的打撃を与えた。その後、今井信元は居城の獅子吼城(同市)に籠もり抵抗を続けたが、同年9月に降伏・開城し、信虎の甲斐統一が実現した。『甲斐国志』などによれば、武田晴信(信玄)の時代には、狼煙台の一つとして使われ、中腹の洞窟には鐘撞き場がつくられ信濃の危急を知らせた。その後、織田信長により武田氏が滅亡すると、徳川氏(家康)と北条氏(北条氏直)による甲斐・信濃をめぐる収奪戦(天正壬午の乱)が行われたが、北条氏は若神子城(同市)とともに笹尾塁を陣地として取り立て徳川氏に対抗した。その後、笹尾塁は徳川氏の支配下に置かれたが、その後間もなく廃城になったと考えられている




_DSC3780笹尾塁説明板
笹尾塁説明板




_DSC3778笹尾塁 堀
笹尾塁 堀




_DSC3783笹尾 郭2
笹尾塁 郭2・・・・何やら、立木がなくなっていました!!




_DSC3794笹尾塁 郭1
笹尾塁 郭1

深草館 山梨県北杜市

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深草館








完成 深草館@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります。




八ヶ岳南麓のほぼ中央に位置する。東を東衣川、西を西衣川によって開析された舌状台地の西南端にある。標高は760mである。南東には南新居集落が接し、東・西衣川の水利をいかした用水路が集落内を巡る。東衣川東の微高地には、北から西方にかけて土塁をもつ方形区画がある。


「甲斐国志」は「深草城虚ト云処アリ、相伝テ城主下総守其次ハ主税助、宮内左衛門ナリト云」(一一二「堀内下総守」の項)、「相伝フ清光ノ臣堀内某居之、子孫堀内下総守ノ子主税助ノ時城陥落魄セント云々、塁濠全ク存セリ」 (四七「深草塁祉」の項)とする。


館跡は東西50m、南北100mの不整長方形を呈する。西を除く三方を空堀で区画し、西は脇を流れる西衣川を堀として利用している。郭内は土塁によって北郭と南郭に二分されている。北郭は北西部分がやや突出した不整五角形で、東西40m、南北30mを測る。高さ1~2mの土塁が巡る。南郭との境界にあたる南側土塁は中央部が4m程虎口状に途切れている。南郭はド東西40m、南北60mの長方形を呈する。南郭中央あたりで東土塁は一段低くなり、西土塁は途切れる。この両地点を結んだラインには、東西方向に土塁の痕跡が残る。昭和初期の史蹟名勝天然紀念物調査段階ではこの土塁が明確に残っており、本来郭は3つであったことがわかる。





_DSC3954深草 西の堀
深草館 西の堀




_DSC3948深草 東の堀
深草館 東の堀





_DSC3942深草 南の堀
深草館 南の堀




_DSC3941深草館 南郭
深草館 南郭




_DSC3931深草 屋形北郭
深草館 北郭

谷戸城 山梨県北杜市

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谷戸城






完成谷戸城改@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(現地説明板を参考に作成)



平安時代後期には、常陸国那珂郡武田郷から源義清・清光親子が甲斐国市河荘(現在の市川三郷町)へ流罪される。逸見清光(冠者)の子孫は逸見荘へ土着した後、甲斐国各地で勢力を拡大し、甲斐源氏の祖となった。
谷戸城は清光の居城と伝わり、江戸時代に成立した『甲斐国志』によれば、清光は正治元年(1199年)に当地において死去したという。平安時代後期には治承・寿永の乱において甲斐源氏の一族が活躍する。
『吾妻鏡』によれば、治承4年(1180年)月23日には石橋山の戦いにおいて伊豆国の源頼朝が敗北し、翌8月24日には北条時政・義時親子が甲斐国入国を試みたという。9月10日には甲斐源氏の武田信義らが信濃国へ出兵して平家方と戦い、9月15日には甲斐へ帰還し、武田信義・一条忠頼ら甲斐源氏一党は「逸見山」に集結した。甲斐源氏の一族は「逸見山」において頼朝の使者である北条時政を迎えたという。「逸見山」の比定地は北杜市域に複数候補地があり、当地もそのひとつとされる





_DSC3958谷戸 遠景
谷戸城 深草館からの遠景




_DSC3962谷戸城 城址碑
谷戸城 城址碑




_DSC3986谷戸 堀
谷戸城 横堀が土塁の内側に在る




_DSC4012谷戸 竪堀
谷戸城 竪堀




_DSC4026谷戸 本丸虎口
谷戸城 本丸虎口




_DSC4027谷戸 本丸
谷戸城 本丸

獅子吼城 山梨県北杜市

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獅子吼城







完成 獅子吼城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります





城は同市江草の根古屋神社の背後の山(地元では城山と呼ばれている)にあった。甲信国境近くに位置していたため国境監視とともに、当時から佐久甲州街道(現在の国道141号線)の裏街道として知られていた若神子から長野県佐久市に至る道が通っていたことから、この街道を押さえる城としても機能した。築城は鎌倉時代末期に遡り、信田氏が居城としていたともいわれるが、築城時期、築城者および築城の経緯はわかっていない。応永年間(1394~1428年)には江草兵庫助信泰(または信康、甲斐武田氏13代の武田信満の三男)が居城としていたといわれるが、その後、甲斐武田氏の一族の今井氏が居城とした。1530年(享禄3)、甲斐守護で信玄の父の武田信虎が扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で山内上杉憲房後室を側室に迎えようとしたことから、今井信是・信元は信虎と対立し、翌年に飫富兵部少輔らと甲府を出奔して大井信業・栗原氏ら甲斐の有力国人領主や信濃・諏訪の諏訪頼満(碧雲斎)を巻き込んだ大規模な反乱へと発展した。諏訪氏と今井氏ら反信虎勢力は信虎が整備した笹尾塁を陥落させて甲府へと進軍したが、同年2月2日と3月3日の合戦で信虎に敗れた。その後、今井信元は居城の獅子吼城に拠って信虎に抵抗したものの、同年9月に信虎に城を明け渡して降伏した。これにより信虎による甲斐統一が達成された。1541年(天文10)、信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は信虎を駿河に追放して家督を相続したが、晴信は信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として獅子吼城を整備した。信玄が整備した狼煙台の一つとしても機能していたようである。その後、1575年(天正3)の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で武田氏に壊滅的な打撃を与えた織田信長と徳川家康の連合軍は、1582年(天正10)に甲斐に侵攻して武田氏は滅亡。織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったものの、同年6月2日の本能寺の変で信長が死去すると甲斐に一揆が起こり、河尻秀隆は討ち死にした。その後の武田氏の遺領をめぐって徳川家康と北条氏直が対立して両者が争奪戦(天正壬午の乱、甲斐における戦国時代最後の戦い)を繰り広げたが、徳川家康が新府城(韮崎市)を本陣としたのに対し、北条氏直は若神子城(北杜市)を本陣とし、獅子吼城も北条氏の拠点となった。同年9月、徳川家康配下の服部半蔵と旧武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らは、北条勢の籠もる獅子吼城に夜襲をかけて陥落させている。その後、徳川氏と北条氏との間に和睦が成立して、徳川氏による甲斐支配が確定したが、その後間もなく獅子吼城は廃城となった。麓の根古屋神社境内に獅子吼城の案内板があり、城山の山頂に至る登山道が延びている。山頂には主郭(本丸)跡が、山腹には平らな石を積み上げた石垣で区画された多数の曲輪や斜面を掘削してくつられた堅堀や石塁、堀切、虎口などの遺構が残っている。





_DSC4110獅子吼横堀
獅子吼 横堀




_DSC4112獅子吼 自然石と石積が混在
獅子吼 自然石と石塁が混在するが、総石垣の城とは・・・・・・・・・・・・




_DSC4098獅子吼 東の石積
獅子吼 東の石塁




_DSC4134獅子吼 主郭
獅子吼 山頂部 主郭




_DSC4138獅子吼 説明板主郭
獅子吼 説明板主郭




_DSC4163獅子吼石積北の帯郭
獅子吼 石塁 北側の帯郭




_DSC4177獅子吼 北の竪堀
獅子吼 北側の竪堀





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獅子吼入り口、現在はここからは立入禁止

中山砦 山梨県北杜市

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完成 中山砦@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(現地説明板を参考にしました)


釜無川の右岸に東西に横たわる標高八八七メートルの独立した山で、眺望は極めてよく、この山頂部に中山砦がある。
 中世の煙火台を兼ねた山城で北を尾白川、南を大武川が流れる。かつて武川衆として活躍した武士団が拠点としたところである。牧原・三吹・山高・柳沢・横手・台ケ原・白須などの集落が、周囲の山裾や河岸段丘上に点在している。
 頂上部の城郭は現在下三吹区有地として管理されており、一等三角点がある。
 武川衆は、釜無川右岸のいわゆる武川筋における地域的武士集団で、武田信光の末男一条六郎信長の孫一条源八時信の子孫が武川筋の各村に分封したのに始まるという。




中山砦










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中山峠入り口からの最初の急登





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中山砦 出丸




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中山砦 山頂部




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中山砦説明板




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中山砦 堀切




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中山砦 三日月堀

若神子城 山梨県北杜市

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『甲斐国志』では、城主を甲斐源氏の祖にあたる新羅三郎義光とし、義光からその子孫である源義清・清光に伝えられたとしている[。
戦国時代には武田氏の信濃侵攻における甲信国境として重要視され、佐久・諏訪口方面からの狼煙の中継点、陣立ての場所として利用されたという。武田氏の滅亡後、武田遺領をめぐる天正10年(1582年)6月の天正壬午の乱では、信濃国から相模国の北条氏直が甲斐へ侵攻し、若神子城に本陣を起き周辺の城砦に布陣した。これに対し、三河国の徳川家康は現在の韮崎市中田町中條に所在する新府城に本陣を起き、七里岩台上の城砦に布陣し、北条勢と対峙した。同年10月には徳川・北条同盟が成立し、氏直は甲斐・都留郡から撤兵した。




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ふるさと公園 若神子城(古城)





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若神子 説明板



古城は西側の尾根上に位置し、規模は東西100メートル、南北200メートル。古城は明治期に若神子で起きた大火の際に土取が行われ、破壊を受けている




_DSC4205若神子 狼煙台
若神子 狼煙台





_DSC4201若神子 畝堀
若神子 薬研堀跡






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若神子城 古城





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若神子 展望

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