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古城巡り 写真館

デジブックにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

姫松館 宮城県栗原市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

完成 姫松館@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(主要郭のみ表記しています)

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鶴丸城 宮城県栗原市

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完成 鶴丸城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(帯郭等は表記していません)

桑折城(館山) 宮城県大崎市

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完成 桑折城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります。

千石城(松山城) 宮城県大崎市)

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完成 千石城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります。

彫堂七館 宮城県美里町

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完成 彫堂七館 宮城県美里市
㊟イメ-ジ図になります。

宮城県 大崎市 栗原市城館2018

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

宮城県 大崎市 栗原市城館





*栗原市(鶴丸館、姫松館)、美里町(彫堂七館)、大崎市(千石城、桑折城)城館のダイジェストです。



鶴丸城 城址碑
鶴丸館 城址碑




中館の二重横堀
姫松館 中館の横堀




彫堂七館 標柱
彫堂七館 標柱




千石城 本丸堀切
千石城 本丸堀切




完成 桑折城@ヤマシロ
桑折城 イメ-ジ図

姫松館 宮城県栗原市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

姫松館









完成 姫松館@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(主要郭のみ表記しています)




平泉藤原氏の臣井ノ山雅楽之丞が館主と伝えられ、雅楽之丞は近郷の諸館を統率したという。文治6年(1190)、平泉藤原氏の残党である大河兼任の乱を助けてこの館に拠り、鎌倉方の千葉新介、足利上総前司、小山五郎など東国の御家人らを迎え撃ち敗れたといわれ、落城の際、千代姫が傘に掴まって断崖を飛び降り逃げ延びたとの伝説がある。また、大崎氏の家臣湯山雅楽允の居館との説もある。

森林公園となり車で城址迄行けるが、悪路、すれ違い不可、Pは数台で森林公園と言えるのだろうか?
遺構的には良好に残り、多少の藪が有るが北側の西館、中館、東館迄続く横堀と東館の竪堀に竪土塁は見事!!




姫松館 西館
姫松館 西館




西館の横堀
西館 横堀




中館の二重横堀
中館 二重横堀 西舘、中館、東館の北側に横堀が巡る!!




姫松館の断崖松
姫松館の断崖の松(現在は松くい虫の為伐採され無)




東館 土橋と竪堀
東館 土橋と竪堀 この城は郭間にこの土橋と竪堀の遺構が複数在る




東館竪堀
東館 竪堀




東館 竪土塁
東館 竪土塁

*今回は東館の畝竪堀は未探索です。

鶴丸城 宮城県栗原市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

鶴丸城







完成 鶴丸城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります。(帯郭等は表記していません)


南北朝時代に、葛西氏一族の富沢河内守道祐によって築かれた。現在、岩ヶ崎小学校のある場所の北側の高地に築かれ、その最高部に本郭、その東に二の郭、三の郭、蛭子館の四つの郭で構成されていた。その規模は東西約650m、南北約400mに及ぶ。富沢氏は葛西氏に五代にわたって仕えたが、1590年(天正18)、豊臣秀吉の奥州仕置により主家葛西氏が滅亡した後、同地を去り南部氏に臣従した。その1年後の1591年(天正19)に九戸政実の乱が起こるが、その際、この城は討伐軍総大将の関白豊臣秀次の陣所となった。その後、鶴丸城は伊達家の属城となり、江戸時代に入ると伊達政宗は重臣の茂庭綱元(鬼庭綱元)を後見として五男宗綱、次いで六男宗信を城主としている。この両城主の早逝後、石母田氏、田村氏、古内氏、茂庭氏、中村氏と城主を変えた。中村氏は1694年(元禄7)に藤沢から転封となってこの地に入り、それ以来明治維新まで鶴丸城を居城とした。城跡は現在、栗駒山を望む景勝地として館山公園になっており、桜の名所として知られている





鶴丸城 城址碑
鶴丸城 主郭の城址碑




鶴丸城 郭3
鶴丸城 郭3 主郭から見下す




鶴丸城 堀切
鶴丸城 堀切




鶴丸城 畝状竪堀
鶴丸城 畝状竪堀 下草で不明瞭

桑折城(館山) 宮城県大崎市

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桑折城(館山)









大崎氏の四家老のひとりである渋谷相模守の居城として知られています。1588年(天正16年)に伊達政宗が大崎義隆を攻めた「大崎合戦」では大崎方の重要拠点となり、大崎・伊達氏に両属する状態にあった黒川月舟斎晴氏は伊達氏からの離反を決め、伊達軍を強襲して撃破しました。「大崎合戦」は大崎方に有利な条件で和睦しましたが、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の奥羽仕置において大崎氏の所領は没収となり、あわせて廃城となりました。現在城址は「館山公園」として整備されており、空堀や土橋などの遺構を確認することができます。




桑折城 主郭からの展望
桑折城 主郭からの展望




桑折城 主郭
桑折城 主郭・・・・綺麗に整備された郭、斜面も同様




桑折城 貯水タンク先の堀切
桑折城 貯水タンク先の堀切




桑折城 南館・・・・別城
桑折城 南館・・・・別城

千石城(松山城) 宮城県大崎市)

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千石城(松山城)









茂庭家記録によると文覚館と云われ、文覚上人が築いたと云われる。
文覚上人の後裔の遠藤盛親が鎌倉公方足利満兼から志田・玉造・加美の3郡奉行に任じられ、応永八年(1401年)に関東より長世保に下向したと云われる。

以後、遠藤氏は天正十九年(1591年)登米郡石森に移る迄千石城を居城とし、松山郷を支配した。

天正十六年(1588年)遠藤高康が城主のとき、大崎合戦が起きた。
その後、石川昭光、古田重直が一時居城としたが、慶長八年(1603年)茂庭良元(もにわ よしもと)が領主となり、三の丸を改修し居館とした。
しかし手狭という理由で寛永八年(1631年)谷を挟んだ西向かいの丘陵に下屋敷として上野館を築き、隠居して慶安四年(1651年)に移った。
代わって定元が千石城に入り、明暦三年(1657年)藩の許可を得て上野館に居館を移した。千石城には留守居の家臣が置かれた。
延宝年間(1673~80年)に書かれた『仙台領古城書上』には志田郡松山4城の1つとして千石城が記され、このころには城として機能していなかったと思われる。『千石城の歴史・大崎市教育委員会』説明板より。


御本丸公園は、中世松山の中心的な城、千石城跡で、本丸・二ノ丸・三ノ丸に分かれ、空壕で区切られています。三ノ丸は明治百年を記念して整備され、現在は「コスモス園」になっています。


千石城 本丸堀切
千石城 本丸堀切




千石城 本丸
千石城 本丸




千石城 本丸東側城塁
千石城 本丸東側城塁

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