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古城巡り 写真館

デジブックにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

鎌倉史跡碑巡る

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

鎌倉史跡碑巡る ①










鎌倉史跡碑巡る ②









「中世の鎌倉」史蹟保存の運動は、古都鎌倉を深く愛する有志の結晶であります。88箇所の各々の石碑にはその情熱の高さが 伺えます 。
今回の石碑巡りは未だ途中ですが、鎌倉と云う町には寺院などの限られた場所以外には遺構と思える物は・・・・・・・・・・・・・見る事が出来ませんが石碑の形で、この場所に中世の歴史が息ずいていた証と思えます。
住みやすい土地は、代々の祖先たちが日々開発を進め住みやすくてきた結果で現在の形が有ります、ですから現状の見える形の歴史を楽しもうと思います。






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ここが起点となる鎌倉駅東口





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一の鳥居





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妙本寺 比企氏の無念が伺える・・・・





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杉本寺の苔むした、石階段





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源頼朝の邸宅 大蔵御所(大蔵幕府)






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太田道灌邸の向に主家扇谷上杉邸が在ります





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GWには、ここに来てはいけません鶴岡八幡宮

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比企能員邸跡

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

比企能員は、源頼朝の乳母であった比企禅尼の養子であり、禅尼と共にこの場所に住んでいました。この土地の名前が、比企ヶ谷というのもこのためです。 能員の娘は頼家の妻になり、 若狭局(わかさのつぼね)とよばれて、一幡という子供を生みました。1203年頼家が病で倒れると、母親でもあり、頼朝の妻でもある政子が頼家の権力を2分して、頼家の弟千幡に渡そうとしました。このことに能員が怒り、 ひそかに北条氏を滅ぼそうと計画しましたが、逆に北条方に覚られ、比企一族はこの地で滅ぼされてしまいました。
この比企谷に比企能員屋敷やその一族の屋敷が有ったのでしょう・・・・・






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比企能員館碑




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一幡の袖塚 比企の乱後、焼け跡の中からわずかに見つかったという袖をまつる。戦火の中、6歳で死んだ一幡の袖だという。






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比企一族供養塔 祖師堂横に並ぶ

北条時房邸

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

若宮大路をはさんで反対側は、4代将軍の時から幕府が置かれた所で、この辺り一帯は、有力御家人の邸が並んでいたと言うことです。その一人、北条時房は、二代目執権北條義時の弟でいくつかの戦で活躍した豪傑だったようです
政治家としても、執権の補佐の連署を務め、幕府公文書に執権と並んで認可の署名をしています。幕府ナンバー2という所でしょう
余談ですが、この北条時房邸で二代将軍源頼家の娘で4代将軍夫人だった、美子(竹の御所)が難産の末母子とも亡くなったところです。




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若宮大路幕府

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鎌倉時代の1236年から1333年にかけて98年間、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の御所(幕府)が置かれた場所である。若宮大路御所とも言う。その以前は宇都宮辻子に幕府があったが、北条泰時により移された。
場所は宇都宮辻子幕府の敷地内の北側もしくは、泰時の邸宅の一部に移されたという説、場所は同じだが、入口が若宮大路側に面しているなど、諸説あって詳細は分かっていない。移転の理由としては4代将軍九条頼経の病気が原因だという説もあるが、これも詳細は良く分かっていない。
1333年、新田義貞による鎌倉攻めにより鎌倉幕府と共に終焉を迎えた。






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北条執権邸

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北条氏の小町亭がありました。北条義時以後代々の執権はたいていここに住みました。あの北条高時が、朝に夕に宴会をして、ときには田楽法師に対して、列席している重臣と共に、 ひたたれや袴(はかま)を投げ与えて褒美の山を築いたというのもこの場所であります。1333年に新田義貞が鎌倉に攻め入った時、戦火で焼けて灰になってしまいました。現在の宝戒寺は、 1335年に足利尊氏(たかうじ)が建てたものです。この寺は高時一族の恨みを鎮めるために、北条氏の菩提寺であった東勝寺を、この屋敷跡に建てて名前を変えたものであります。




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畠山重保邸

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若宮大路を由比ガ浜の方向に行くと一の鳥居の近くに畠山重保邸跡の碑と畠山重保主従四人の墓と伝えられる宝篋印塔がある。碑には「畠山重保は重忠の長子であるが、かつて北条時政の婿平賀朝雅と争った。朝雅その恨みから重保父子を時政に讒訴(ざんそ)した。時政はもともと重忠が頼朝の死後その遺言によって頼家を保護するのを見て、何か事があればこれを討とうと思っていた。よって実朝の命令によって兵を遣わして重保の邸宅を囲んだ。重保は奮闘の後に死んだ。時は元久2年(1205)6月12日のことでこの地はつまりその邸宅の跡である




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畠山重忠邸

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 『吾妻鏡』の建久10年(1199年)の条には、「畠山次郎重忠の南御門宅」とある。

 畠山重忠は、源頼朝に仕えた武将。

 頼朝の挙兵時には大庭景親に従ったが、間もなく頼朝に従い、頼朝の鎌倉入りでは先陣を勤めた。

 宇治川の合戦では、おぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといい、一ノ谷の合戦のひよどり越えでは、愛馬を背負っておりたという伝説が残る。

 段葛の造営や佐助稲荷神社の建設に力を尽くしたが、頼朝死後、北条時政に騙され武蔵国二俣川(横浜市旭区)で最期を遂げる。






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千葉氏屋敷

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鎌倉江の島七福神の一つで「寿老人」を祀る。旧本山は、中山法華経寺。達師法縁。
鍋かむりで知られる日親ゆかりの寺として知られ、御家人千葉常胤の子孫千葉胤貞の別邸「千葉屋敷」跡に建つ。





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土佐防昌俊邸

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

土佐坊昌利は、堀川の館にいる源義経を夜におそいましたが、逆に殺されてしまいました。吾妻鑑によると、この事が次のように書かれています。義経を討つ者を募っているとき、みんな辞退したい気持ちであったところに、 この土佐昌俊が進んで引き受ける旨申し上げると、頼朝は、大層喜びました。そして、出発の間際に頼朝の前に参り、自分には年老いた母や幼い子供たちがおり、下野の国に残して行きますので、 もしもの事があれば情けを掛けてやって欲しい旨申しあげた、などと書かれています。一度行けば、帰ってこれないと言う、悲壮な覚悟で門出した武士の屋敷が在ったのは、この場所であります。
やはり、当然ですが周辺は住宅地となります。





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源義朝屋敷

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

現在の寿福寺のある付近は、奥州に向かう源頼義が勝利を祈願したといわれる源氏山を背にした、亀ヶ谷と呼ばれる源氏家父祖伝来の地であり、頼朝の父・源義朝の旧邸もこの地にあった。1180年(治承4年)初めて鎌倉入りした頼朝は、ここに館(幕府)を構えようとしたが、すでに岡崎義実が堂宇を建て義朝の菩提を弔っていたことや、土地が狭かったため、当初の計画を変更したといういきさつがある。




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寿福寺 山門




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寿福寺 本堂

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