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古城巡り 写真館

デジブックにて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・
星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ

川口氏館 埼玉県加須市

Posted by 樋口山城守与六 on   0 

「吾妻鏡」の暦仁元年(1238年)2月17日の項に将軍藤原頼経の上洛にともない供奉した武藏武士の一人として先陣192騎の16列目に河口八郎太郎の名が記されています。「加須市史」ではこの人物が当時における河口の在地領主であったと推定しています。また、同所の西蓮寺は河口氏が創建したとも伝わっている




DSC_8309 川口氏館
川口氏館跡周辺 西蓮寺





20018改 埼玉県加須市城館位置







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設楽氏陣屋 埼玉県加須市

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徳川氏の関東入部に従い、家臣団の知行割によって旗本設楽甚三郎貞清が、加須村、礼羽村、馬内村の三ヶ村1200石の知行が与えられ幕末まで継承支配していく
貞清は馬内村に香積寺を開基し初代清貞以降十二代貞寛に至らる十二基の墓塔が有る、又礼羽村に金蓮寺を開基し四代貞成は馬内村に三宮寺を開基した。
又、礼羽村金連寺の近くにも伝陣屋跡がある。
「加須市史通史 より」





DSC_8306 設楽氏陣屋跡 陣屋通り
設楽氏陣屋跡 陣屋通り




DSC_8296 設楽氏陣屋 伝承地
設楽氏陣屋 金連寺北側近くの伝承地 





DSC_8301 礼羽氏菩提寺 香積寺
設楽氏菩提寺 香積寺





DSC_8305 設楽氏累代の墓
設楽氏累代の墓





DSC_8291 金蓮院 山門
金蓮院 山門







20018改 埼玉県加須市城館位置







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礼羽氏館 埼玉県加須市

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礼羽氏について『加須市史』は、「『吾妻鏡』建保元年(1213)5月2日の条、和田義盛が挙兵し幕府を襲撃した。義盛三男義秀の乱入を防ごうとした数人の武士が義秀に討たれた。その武士の中に礼羽蓮乗の名がみえる。礼羽の番場・早道場の耕作名は礼羽氏に関係する遺跡であろうといわれている。」と記している。



DSC_8293礼羽氏館 堀1
礼羽氏館跡の堀




DSC_8297  伝承 礼羽氏館
舘跡の北側の道路に在る標柱






20018改 埼玉県加須市城館位置






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久下塚氏館 埼玉県加須市

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児玉党の氏族の中でも久下塚氏は謎が多い氏族であり、伝承にも差異があり、混乱が見られる。児玉党の本宗家となった本庄氏が居館を築く(13世紀)以前から児玉郡の北堀村の字久下塚(現在の埼玉県本庄市北堀)に土着していた一族とされる。まず、諸々ある『武蔵七党系図』の一つには、「庄太郎家長の子、本庄二郎左衛門家次の弟、久下塚庄二郎弘定、その子、若泉太郎左衛門弘能、その子、木西左近四郎経季なり」とある。家次の弟は本庄時家であり、北堀に居館を築いたため、久下塚氏と混同されたものと考えられる(本庄氏は北堀村の字本田に館を築いたものと推定されている)。無理やり児玉党の本宗家一族に系譜を繋げた観があり、また、弘定の孫が「木西(牧西)氏」を称した事になっている。木西四郎とは、牧西四郎弘季(庄太夫弘高の子息)を指すものと考えられる


DSC_8308 久下塚氏館
久下郵便局後方が館跡思われる





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20018改 埼玉県加須市城館位置

高柳氏館 埼玉県加須市

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大河戸氏から分れた一族で、高柳郷(上高柳・加須市下高柳)に住んでいたといわれますが、その館跡がどこにあったのかはわかっていません。
鎌倉時代はじめの建久6年(1195)に、奈良で東大寺の修理完成祝いが行われたとき、高柳行元が源頼朝に従っています。




DSC_8268 高柳氏館跡 推定
高柳氏館跡 推定




20018改 埼玉県加須市城館位置

割目堀之内 埼玉県加須市

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久喜市に所在する清久次郎・清久山城守などの清久氏の一族に繋がる館跡の可能性を示唆しているものの遺構・伝承は存在しない




DSC_8288 割目堀之内
割目堀之内でないかと思われる清鏡寺





DSC_8283 松牲寺 古河公方館北門移築と
おまけ・・清鏡寺北側の桂松寺、その山門は久喜市の第2代古河公方足利政氏(1466-1531)の館の北門を移築したものとされています





20018改 埼玉県加須市城館位置






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鐘撞山(油井城) 埼玉県加須市

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油井城は武蔵七党のひとつ、猪俣党の当主で源平合戦などで名高い猪俣小平六範綱またはその末裔の城だと伝わっています。騎西城の支城で、1563年(永禄6年)には上杉謙信の軍勢に当時北条氏の属城となっていた騎西城とともに攻められました。このとき城兵が鐘を衝いて騎西城に危急を知らせたことから「鐘衝山(かねつきやま)」と呼ばれるようになったそうです。現在城址には土塁、空堀、水堀の一部が現存しており、案内板が建てられています。




DSC_8282 鐘撞山 油井城
鐘撞山 油井城 遠景




DSC_8271鐘撞山 標柱
鐘撞山 標柱





DSC_8273鐘撞山 堀2
鐘撞山 堀






DSC_8276鐘撞山の碑
鐘撞山の碑






DSC_8279 鐘撞山 堀南側
鐘撞山 堀南側





DSC_8281 鐘撞山から見た騎西城方面
鐘撞山から見た騎西城方面





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20018改 埼玉県加須市城館位置

騎西城(私市城) 埼玉県加須市

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DSC_8261騎西天守
騎西城模擬天守 ㊟このような天守は騎西城には有りませんでした。





江戸時代初めの騎西(私市)藩の藩庁が置かれた城。湿地に築かれた沼城である。築城時期、築城者はわかっていないが、執事(関東管領)の山内上杉氏と室町幕府(足利将軍家)とが対立し、鎌倉から下総国古河(茨城県)に拠点を移した鎌倉公方(古河公方)の足利成氏が1455年(康正1)に、深谷上杉氏(山内上杉氏の支流)の庁鼻和(こばなわ)性順(上杉憲信)と長尾景仲が守る同城を攻略したという記録が史料の初見である。その後、騎西城は古河公方の前線拠点となり、城の整備が進んだ。16世紀初めには、種垂城(同町)から小田顕家が入城し、その後、顕家は忍城(行田市)の城主成田親泰の次男朝真を養子として同城の城主とした。北条氏の勢力が拡大する中、忍城の成田長泰とともに長尾景虎(のちの上杉謙信)に従ったが、長泰の上杉氏離反にともない、騎西城も北条氏方の城となった。1563年(永禄6)、越後の上杉輝虎(のちの謙信)は、相模の北条氏と甲斐の武田氏に攻められていた松山城(比企郡吉見町)の救援に向かったが間に合わず、輝虎は代わりに小田助三郎(成田家時)の守る騎西城を攻撃し、落城させた。その後、同城は再び北条方の城となった。1574年(天正2)には、深谷城(深谷市)奪還のため関東に出陣した謙信が、北条氏の大軍に包囲された関宿城(千葉県野田市)救援のため、菖蒲城(南埼玉郡菖蒲町)、羽生城(羽生市)、岩槻城(さいたま市)とともに、再び騎西城を攻撃した(第三次関宿合戦)。その後1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)で、同城は中山道を進んだ豊臣方の軍勢の攻撃にあい、落城した。北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入部すると、騎西城には松平康重が2万石で入城し、騎西藩とした。その後大久保忠常(小田原城主の大久保忠隣の子)が城主となったが、1632年(寛永9)に大久保氏の美濃国加納転封に伴い、天領(幕府直轄領)となったことから、同城は廃城となった。現在はかつての本丸周辺まで宅地化が進み、土塁や空堀の一部が残っているのみである





DSC_8247 騎西城 土塁
騎西城 土塁




DSC_8249改





DSC_8252改 騎西城 土塁上の城址碑
騎西城 土塁上の城址碑





DSC_8257 騎西城 模擬天守
騎西城 模擬天守





DSC_8259騎西城 説明板より
騎西城 説明板より





DSC_8262 騎西城 ニノ郭
騎西城 ニノ郭





DSC_8266 騎西城 大手門跡
騎西城 大手門跡




DSC_8264 騎西城 本丸方面
騎西城 本丸方面





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種足城 埼玉県加須市

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佐々木氏のあとに騎西(私市となったのが小田顕家です。  顕家は文亀2年(1502)に上会下(鴻巣市)の雲祥寺を建て直し、また、忍城(行田市)主の成田親泰の子ども助三郎(朝興)を養子にして、騎西城主にしています。そして、自分は種垂城(昔は種足を種垂と書きました)に隠居して天文8年(1539)に亡くなりました。
 
種垂城の発掘調査では、井戸・円形や四角形の穴・堀などが見つかり、そこから中国で焼かれた青磁の碗や、瀬戸美濃(愛知県と岐阜県)で焼かれた皿や鉢、騎西周辺で焼かれた素焼きの土器が出土しています。





DSC_8241城址碑替わり??





DSC_8232種足城説明板
種足城説明板




DSC_8233種足城周辺地名
種足城周辺地名




DSC_8234種足公園内
種足公園内




DSC_8238 種足城公園内
種足城公園内




DSC_8239八幡社跡
八幡社跡




DSC_8244天神社と奥がシロウチ
手前が天神社で奥がシロンチ(城の内)




DSC_8243小沼耕地遺構
小沼耕地遺構 種足城北に位置します






20018改 埼玉県加須市城館位置







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多賀谷氏館 埼玉県加須市

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道智頼意の孫のときに、道智氏から分れて多賀谷(内田ヶ谷)に住み、多賀谷氏と名のりました。道智氏と同じように源頼朝<みなもとのよりとも>が上洛したときに頼朝に従い、また、多賀谷兵衛尉が武蔵野を開墾しています。
多賀谷氏は鎌倉で行われた正月行事の“弓始め”の射手を射として代々活躍しました。のちに常陸国結城(茨城県結城市)に移っています。
多賀谷氏の館跡は内田ヶ谷の大福寺<周辺と考えられ、付近には寄居・タテヤマ(館山と考えられます)などの館に関連する地名が残っています。
 発掘調査では堀・井戸・円形や四角形の穴が見つかっています。そこから、刀の先や弓矢の矢じり、中国で焼かれた青磁の碗<わん>・皿・甕、常滑(愛知県)で焼かれた甕、騎西周辺で焼かれた素焼きの土器が出土しています。






DSC_8224 大福寺の参道
大福寺の参道




DSC_8225 gennti





DSC_8227多賀谷氏関連の板碑
多賀谷氏関連の板碑





DSC_8229多賀谷氏館跡 大福寺
多賀谷氏館跡 大福寺本堂





DSC_8226 大福寺後方に何やら旧家が!!ここが館跡でもおかしくない!!
大福寺後方に何やら旧家が!!ここが館跡でもおかしくない







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