星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
FC2ブログ

古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

御朱印で巡る上野・浅草 2016.7.25 完結

御朱印で巡る上野・浅草





東京都、台東区上野公園の神社。1616年お見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作ってほしいという遺言を受けました。そこで藤堂家の屋敷地であった上野に1627年に東照宮を造営しました。
1651年に三代将軍・徳川家光公が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿です。金箔をふんだんに使い、大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれています。 その後、戦争や震災などの災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物です。



_DSC1372_convert_20160724171119.jpg
上野東照宮


浅草神社の創建年代は不詳ですが、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた桧前浜成、桧前竹成及び浅草寺の観音像を奉安した土師真中知を祭神として、約700年前に創建したといいます。


_DSC1396_convert_20160724171143.jpg
浅草神社~浅草寺隣です

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

スポンサーサイト

行田 古代蓮の里 &田んぼア-ト

古代蓮の里






行田市の“天然記念物”に指定されている行田蓮(古代蓮)は原始的な形態を持つ1400年~3000年前の蓮であると言われています。

古代蓮の里にほど近い公共施設建設工事の際に、偶然出土した種子が自然発芽し甦り、池に開花しているのが発見されました。地中深く眠っていた多くの蓮の実が出土し、自然発芽して一斉に開花した事は極めて珍しいことといわれています。



_DSC1322_convert_20160723133035.jpg



_DSC1308_convert_20160723133005.jpg
甲斐姫の名が付く蓮


_DSC1311_convert_20160723133021.jpg
ごく僅かしか、咲いていなかった睡蓮


_DSC1301_convert_20160723132949.jpg
田んぼア-ト~ドラゴンクエスト30th~


大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )

国宝 【松本城天守】 2016.7.16

国宝 【松本城天守】">国宝 【松本城天守】







今回は、松本城天守を中心に撮影しました



DSC_1254_convert_20160717160000.jpg





DSC_1261_convert_20160717160032.jpg





DSC_1288_convert_20160717160101.jpg






にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

伊深城~初登城2016.7.16・・・おまけ松本城

伊深城






伊深(いぶか)城は岡田地区伊深集落北側、標高911mの山頂に、里山辺の林城(林城跡は現在「小笠原氏城跡」として長野県史跡指定)の支城として造られました。
現在は南東側山麓の若宮八幡社から尾根上を登る道が整備されていて、小道をたどると要所要所に小郭があり、良く保存されています。山頂部の主郭には、明治年間に建立された石尊大権現の石碑があります。主郭からの眺めはすばらしく、晴れた日には正面に木曽谷の入口が見えます。全体に保存も良くまた主郭付近は桜が植えられて地元の文化財として大切にされています。

伊深城は、室町時代中頃から戦国時代に築かれた推定され、城主は後庁(ごちょう)氏とされています。後庁氏は小笠原氏の幕下にありましたが、いつごろか隣接する赤沢氏に滅ぼされ赤沢氏の所有となったとも伝えられます。その傍証資料として『信府統記』(しんぷとうき)に赤沢氏の開基とされる慶弘寺の記事が見られます。慶弘寺は伊深城の東麓にありましたが、廃仏毀釈のため廃寺となりました。
この城は天文19年(1550)武田軍の林城攻撃のとき自落しました。
戦国期を通じて府中から東北信への出入口にあたり、稲倉(しなぐら)城(現在は稲倉城跡として松本市特別史跡指定)と共に重要な位置にあったといえます。



DSC_1186_convert_20160717084341.jpg




DSC_1220_convert_20160717084409.jpg



DSC_1231_convert_20160717084444.jpg



DSC_1252_convert_20160717084507.jpg


長野県松本市伊深



にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

光城~初登城 2016.7.16

光城






長野県安曇市田沢

築城年代は定かではないが光六郎幸元によって築かれたと云われる。 光氏は海野氏の一族で海野幸元が築城し、光氏を称したことに始まるとされる。

天文22年(1553年)武田氏の苅谷原城攻めに際して光城も落城したという。



DSC_1120_convert_20160717082447.jpg
麓から見た光城



DSC_1148_convert_20160717082512.jpg
主郭、現地説明板


DSC_1141_convert_20160717082536.jpg
主郭、古峰神社





DSC_1145_convert_20160717082623.jpg
主郭、現地縄張り図





にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

田沢城~初登城2016.7.16

田沢城





鎌倉時代にこの地に来住した海野氏の一族・光氏によって戦国時代に築かれたと思われる。海野氏の一族は、そのころ光城、会田城、刈谷原城、上の山城、塔ノ原城にそれぞれ拠点を築き、互いにノロシ等を使って連絡しあった。

田沢城は光城から派生する尾根に築かれ、その出城的な存在だったものか。天文二二年(1553)武田信玄の刈谷原城攻めで落城し、その後小笠原貞慶によって修復されたと考えられる。

登城口さえ解れば、ひたすら山道を進むだけで20分位で主郭迄行けます。




DSC_1119_convert_20160717080731.jpg
麓から見た田沢城



DSC_1083_convert_20160717080845.jpg
主郭の二重堀切


DSC_1072_convert_20160717080817.jpg
主郭にて・・・・・


DSC_1102_convert_20160717080917.jpg
上部から見た出城




大きな地図を表示  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )



にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村


姫路城~世界遺産・日本100城

姫路城






姫路城 西の丸







DSC_0828_convert_20160710205848.jpg
大手門を入った場所


DSC_0832_convert_20160710205928.jpg



DSC_0903_convert_20160710205752.jpg
備前曲輪からの天守


DSC_0929_convert_20160710205816.jpg
三国堀手前から


姫路城は、播磨国飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。この他、「国宝五城」や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。

姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏[注釈 2]の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。

江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。

明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられた
昭和に入り、太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。




大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )



にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

岡山城~おまけでギリギリ入場日本100名城

岡山城







天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され慶長2年(1597)に完成した岡山城。西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用しています。天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けるこの時代の特徴から外観が黒く、後の時代には「烏城」とも呼ばれています。秀家はこの城を戦の施設としてだけでなく、領国内の商人や職人を集めて治世の府とし、城下町の整備を行っています。関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で城主よりも長い期間の余生を過ごしました。

 秀家に代わって城主となった小早川秀秋は、それまでの西側の外堀の外側に城域を拡張して新たに外堀を設け、その外に寺町を配置しました。外堀の掘削は二十日間の突貫工事であったために、「二十日堀」と呼ばれていました。

 秀秋の夭折(ようせつ)の後は、幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、池田家を藩主として明治維新に至りました。また藩政が安定期に入った17世紀末には、旭川を隔てて北側に藩主が憩と趣を楽しむ庭として広大な「後楽園」が作られました。

 岡山城は、歴代城主の下で岡山の町並みの発展を見続け、近代都市の礎となったのです。




DSC_0575_convert_20160710204059.jpg



DSC_0586_convert_20160710204118.jpg




DSC_0612_convert_20160710204137.jpg



DSC_0644_convert_20160710204157.jpg




大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

備中松山城~現存天守 2016.7.9

備中松山城 ①






備中松山城 ②








松山城大手
大手門側の石垣~大河ドラマ「真田丸」で登場



DSC_0765_convert_20160710202012.jpg
現存二重櫓


DSC_0780_convert_20160710201905.jpg
本丸への入り口(この正面の平櫓は復元)



DSC_0792_convert_20160710201925.jpg
現存天守~備中松山城



DSC_0711_convert_20160710203027.jpg
三の丸への登城道


市街地の北端にそびえ、「おしろやま」の愛称で市民に親しまれている、『臥牛山(標高約480M)』。
北から、「大松山」「天神の丸」「小松山」「前山」の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏 した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城はその 頂を中心に全域に及んでいます。

現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の小松山の山頂(標高約四三0M)を中心に築か れた近世城郭を指しており、天守の現存する山城としては随一の高さを誇ります。城内には天守、二 重櫓、土塀の一部が現存しており、昭和十六年には国宝(昭和二十五年文化財保護法の制定により 重要文化財)の指定を受けています。

また、平成六年度からはこれら重要文化財を中心に、本丸の復元整備が行われており、本丸の正面 玄関ともいえる本丸南御門をはじめ、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが忠実にもと づいて復元されています。


鎌倉時代の延応二年(1240)に有漢の郷(現在の上房郡有漢町)の地頭に 任ぜられた秋庭三郎重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まります。

その後、小松山に移り、城の縄張りは時代と共に変化しますが、なかでも天正二年(1574)に起こった 「備中兵乱」時は「砦二十一丸」と呼ばれた出丸が築かれていたことが記録として残っており、臥牛山ー大要塞となっていたことがうかがえます。

当時の城主であった三村氏が滅んだ後も、毛利氏の東方進出の拠点として、またさらに毛利氏が
防長二国に退いてからも、備中 国奉行として赴任していた小堀正次・正一(遠州)父子により修改築が なされるなどなど備中の要衝としての役割を担っていたようです。

以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えますが、現存する
天守などは天和三年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられています。


*この松山城の二重櫓から数百メ-トル先に城が有りましたが今回はいけませんでした((+_+))



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )



にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

竹田城~本家天空の城??2016.6.8

竹田城







竹田城築城、太田垣氏の時代


竹田城の始まりは、嘉吉年間(1441年~1443年)に当時の但馬守護山名宗全が配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされます(口碑)。その後、山名氏の重臣である太田垣氏が初代・光景(誠朝という説あり)以下7代に渡って城主を務めました。しかしながら、天正8年(1580年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による但馬攻めにより、竹田城は落城、太田垣氏も没落したと考えられています。

赤松広秀の治世


その後、羽柴秀長(城代)、桑山重晴と城主が続き、天正13年(1585年)播磨龍野城主であった赤松広秀(斎村政広)が朝来郡2万石(その後2万2千石)で入城します。現在に残る石垣遺構は、広秀が城主の頃に整備されたと考えられます。また、広秀は「仁政の主君」として領民から慕われていたとされます。養蚕業や漆器産業を奨励し、現在に繋がる地場産業の礎を築きました(漆器作りは、竹田の地場産業である家具製造業の元になったと伝えられています)。他にも、近世儒学の祖とされる藤原惺窩を援助したり、文禄・慶長の役により日本に来た朝鮮の儒学者姜沆に教えを乞うなど、儒学の普及振興にも大きく寄与しました。

関ヶ原の戦い、廃城


慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると、当初広秀は西軍に与し丹後田辺城攻めに加わりました。その後、西軍の敗戦を知り竹田城に撤退したところ、東軍として鳥取城を攻めていた因幡鹿野城主亀井玆矩から来援要請を受け出陣、功を挙げたとされます。しかし、鳥取城攻めの際に城下町を放火したとの罪で自刃させられ、竹田城も廃城となったのです。




DSC_0460_convert_20160710200738.jpg
大手口の城址碑


DSC_0478_convert_20160710200822.jpg
三の丸から見た本丸、天守台


DSC_0507_convert_20160710200853.jpg
本丸から見た、二の丸、南千畳


DSC_0532_convert_20160710200910.jpg
二の丸から見た天守台


DSC_0543_convert_20160710200929.jpg
南千畳から見た本丸



大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村