星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

陸奥代官塙陣屋 釜子陣屋 釜橋之碑

代官塙陣屋 釜子陣屋 釜橋之碑



代官塙陣屋  東白河郡大字塙本町

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塙代官陣屋案内板によると「陸奥代官塙陣屋は、江戸幕府が、享保14年(1729)2月、塙の近隣5万石余を直轄地とし、竹貫(石川郡竹貫村)の陣屋を開設し、同年9月、塙に陣屋が移された事により始まる。塙に陣屋が移された理由は、塙の地が常陸太田街道、平潟街道沿いに位置し、久慈川流域の年貢米の輸送の便、更には奥州外様大藩のけん制、或は、江戸防衛の重要な地点に位置するためと考えられ、慶応4年(1868)4月まで置かれていた。塙陣屋の敷地面積は、5434㎡、建物面積1134㎡余で堀を巡らし、「表御門」をくぐると「御殿」と云われる代官の住居を兼ねた建物が、南東に面して中心をなし、その北東には、「元禄長屋」と「公事方長屋」、御殿真後ろに「手代長屋」と「物置」、南西に「板蔵」があった。また、表御門前には、「年番所」が置かれていた。 塙町教育委員会」とあります。塙代官陣屋跡は昭和51年(1976)に塙町指定史跡に指定されています。現在は大部分が宅地化され御殿跡には子育て地蔵堂が建立されています(毎月24日は「子育て地蔵尊の日」として御開帳されます)。

釜子陣屋 福島県白河市

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白河市釜子地方は、寛保元年(1741)より約130年間、越後高田藩15万石の領地となり、文化6年、浅川より釜子に陣屋を移し領地を支配しました。

明治元年(1868)戊辰の役では、西軍(新政府軍)の攻撃に遭い、6月25日に焼失落陣しています。

釜子地区は、茨城街道の宿場町として古くから栄え、今でもその面影を残しており、釜子陣屋跡は300年続く蔵元である有賀醸造の裏にあります。


釜橋之碑

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源義家が安倍貞任を討つために奥州に遠征した、と…。で、当時ここは釜場で、近所の川に義家が橋をかけたことからこの辺は『釜橋』という地名になった…」

「この橋の上で、義家が家臣とご飯を食べていたら子供たちが寄ってきた。その子供たちにもご飯を分け与えたという言い伝えから、特にこの辺りを『釜子かまこ』と呼ぶようになったと云う」
現地説明板より

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赤館 中丸館~棚倉町中世の城館

赤館 中丸館

赤館 棚倉町大字棚倉(赤館公園)

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棚倉北部標高345mの丘陵地にあり、近世棚倉城が築城されるまでは丘陵に館が築かれこの地を治めてきました。
丘陵地から眺める風景は、城下町棚倉の町並みが一望でき、また、公園の南側山麓には、「紫衣事件」で棚倉に配流された京都大徳寺の住職玉室和尚の草庵跡の碑があります。
中世の赤館に関する資料は極めて少なく、築城時期など判然としない点が多くありますが、唯一建武年中(1334~1338年)に赤館伊賀次郎が赤館城主であった記録から、赤館はこの頃すでに築かれていたことがうかがえます。

中丸館 棚倉町大字板橋字日照田

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仲丸左京大夫が在城し、後に白河結城氏に属した上遠野盛秀が在城した。

永禄3年(1560年)寺山館まで北上した佐竹氏に対抗するため、白河結城氏は葦名氏に支援を依頼し、葦名氏は赤館を改修し、上遠野盛秀が赤館の城代となり中丸館は廃城となったという。
薮がひどいが、南の堀が内側に曲る横矢の構造がある。曲輪は南北に二つあり北を一番平、南を二番平と称する。曲輪の間は空堀で中央と東端に土橋が架かる。ほぼ全周を堀と土塁が巡っている。



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小峰城~震災後の現状は?

小峰城

福島県白河市

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奥州関門の名城と謳われた小峰城は、結城親朝が興国・正平年間(1340~1369)に小峰ヶ岡に城を構えたのがはじまりで、寛永9年(1632)に江戸時代の初代藩主、丹羽長重が4年の歳月を費やして完成させた梯郭式の平山城です。

その後、松平定信をはじめ7家21代の大名が居城しましたが、慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いで落城。約120年の時を経て、平成3年(1991)に三重櫓、平成6年(1994)に前御門が江戸時代の絵図に基づき忠実に木造で復元され、市のシンボルとして親しまれています。

平成22年8月5日に、その歴史的な重要性が評価され、国指定史跡となりました

まだまだ先は長いように、思われる・・・・・・・・・・・・・・・。

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棚倉城~丹羽長重の築城

棚倉城



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元和元年(1622年)、常陸国古渡より棚倉に移封された丹羽長重は、幕府より築城の命を受け寛永元年(1624年)、近津明神(都々古別神社)を馬場の地に遷宮し、翌2年、その跡地に棚倉城の築城に着手し、寛永4年(1627年)に完成しました。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争で落城するまでの240余年、8家16代の城主交代があり、お堀に住む大亀が水面に浮かぶと決まってお殿様が転封されたということから、別名「亀ケ城」ともいわれています。
土塁の上には南北朝時代の板碑や棚倉城規模碑、畑俊六元帥終焉の碑などがあります

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佐倉~武家屋敷

佐倉~武家屋敷 2015.10.18



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城下町佐倉の面影をいまに残す土塁と生垣の通りに面して、「旧河原家住宅」(千葉県指定文化財)、「旧但馬家住宅」(佐倉市指定文化財)、「旧武居家住宅」の3棟の武家屋敷が現在公開されています。
3棟とも江戸時代後期の建築で、佐倉藩士が暮らしていたものです。
旧河原家住宅は、市内に残る武家住宅の中で最も古いものとされ、展示された調度品に佐倉の武士の生活様式を垣間見ることができます。
旧但馬家住宅は、当時より現在の場所に建っていた武家屋敷で、建物内の見学・休憩ができます。

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大宝城~南北朝、常陸激戦の舞台!!

大宝城



大宝城  下妻市大宝667

大宝城
西、北、および東方の一部を旧大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用して造築された城郭であり、東方も古い時代は沼か湿地であったと思われるから三方断崖に面した要害の地であった。
 東西288メートル・南北576メートルで台地の北方を本丸、南方を大手、東を搦手とした。
 1341年(興国2・暦応4)11月、春日中将顕国が興良親王を奉じて小田城よりここに移ってから、東国における南朝方の拠点となった。
 その後、北朝方の猛攻をうけて苦戦を続け、食糧不足と城内不和のため、1343年(興国4・康永2)11月12日落城。
 城主下妻政泰は討死したといわれる。
 城跡は大宝八幡宮の境内として今にその面影を留めている。
 八幡宮裏に1931年(昭和6)5月建立の『贈正四位下妻政泰忠死之地』の碑と、1943年(昭和18)11月の『下妻政泰公碑』が建っている



完成 大宝城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ





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関城~南北朝、常陸激戦の舞台!!

関城






関城
市の南端にあり、東・南・西の三方が大宝沼に囲まれ、北部は台地続きで数重の土塁と東から西側の大宝沼に通じる堀割をめぐらせ、天然の要害地とした城郭です。
延元元年(1336)後醍醐天皇が神器を奉じて吉野に入ってから朝廷は二つに分かれ相争うこととなり、吉野朝を南朝、京都朝を北朝として南北朝時代の動乱が幕開けしました。
延元3年(1338)南朝方は奥羽地方の兵力を結集して再興を計ろうと、義良(よしなが)親王を奉じ、その補佐役の北畠親房らとともに伊勢を出航しましたが、途中暴風に遭い四散し、親王の船は伊勢に吹き戻され、親房の船は常陸東条浦に漂着しました。いくつかの城を経て小田城に入った親房のもとに、関宗祐父子も馳せて北朝軍と戦いました。この時、後醍醐天皇の崩御と義良親王の即位を知り、親房はここで神皇正統記などを執筆しました。その後、小田城は高師冬軍に攻められ城主小田治久が北朝軍に降ったために、親房は関城に入り、関宗祐父子は大宝城主下妻政泰とともに北朝軍と戦いました。
関城を巡る攻防戦の中で親房は神皇正統記を完成させましたが、四方に敵を受けた関宗祐は、ここで親房を重囲の中から吉野に脱出させました。
興国4年(1343)11月11日、関城は大宝城とともについに落城し、宗祐父子も城と運命を共にしたと伝えられます。
関城跡には、関宗祐父子の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、墓の南側には「関城之碑」(明治3年建立)もあります。小山弘の文になるこの碑は、宗祐と親房の偉業を讃えています。また、この墓前域においては、地域の人たちによって落城の日を命日として墓前祭が行われています。ほかに坑道跡や土塁、堀も残され往時を偲ぶことができます。




完成 関城@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります、現地説明板を参考にしました。

秩父巡礼2014 午年総開帳~晩秋

秩父巡礼 午年総開帳


秩父札所巡礼、終了の翌日の風景です・・・・・・・・・最高の1枚を求めて・・・・・・・・・・
晩秋の秩父で、もう冬はまじか・・・・紅葉も終り、午年総開帳も終了

【コミネモミジの巨木は樹齢500年】
w300h300大紅葉?

【あの花の舞台、新秩父橋】
w300h300あの夏の舞台

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秋月城 久留米城~九州

秋月城 久留米城



秋月城  福岡県朝倉市秋月野鳥

秋月
秋月城(秋月陣屋)は、1624年(寛永元年)に福岡藩主・黒田長政の三男である黒田長興が福岡藩の支藩、秋月藩の藩庁として築いた城です。この場所にはもともと秋月氏の居館があり、背後には古処山城があります。この陣屋には二重櫓や平櫓が5基建て並べられていたといわれます。現在、城址には黒田長興を祀った垂裕神社が建てられており、堀や石垣のほか、裏門であった長屋門、旧大手門である黒門が現存しています。また「筑前の小京都」と呼ばれる城下町も残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

久留米城  福岡県久留米市篠山町444

久留米
久留米城は有馬豊氏の居城として知られています。石垣や堀はいまも残っており、往時の雄姿をしのぶことができます。現在は本丸に有馬記念館と篠山神社が建てられています。明治時代初頭に城の建造物の大半は解体されましたが、本丸の水手御門が久留米市草野町草野の寿本寺山門として移築現存しています。また、二の丸の乾門(二の門)が京町にある日輪寺山門として移築現存されていましたが老朽化により解体されてしまい、のちに同じ場所に再建されました。

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薩摩 霧島 鹿児島 姶良市城館~薩摩

桑幡氏館 舞鶴城 加治木城 加治木館 富隈城 鶴丸城 横川城 松尾城



桑幡氏館 鹿児島県隼人町神宮2
桑幡氏館
神仏混淆であった大隅正八幡宮には、別当寺も含め多くの神官・神人・僧侶が係わっている。「四社 家」、「十家」又は「一家」、「衆徒十五坊」、「殿守十二家」、「四十七家」「隼人十八家」など 百十家があり、中でも世襲の四社家は、それらを統括する立場にあった。

 桑幡氏は、息長姓をもち現在の当主で76代目となる。中世には「社家の筆頭」とされる。長く大隅正八 幡宮の四社家として、留守・沢・最勝寺氏とともに神宮の繁栄を支えてきた。桑幡氏は、「火闌降命よ り出、欽明天皇御宇息長姓を賜う」とあり、隼人の子孫であるともいわれ、また、大分県の宇佐から来 たともいわれる。平安~鎌倉時代には助清・清道親子152・53代)が活躍した。『平家物語長門本』に第 53代息長清道が登場し、平清盛と親交があったことが記されている。

 平成12年度から宅地造成やマンション建設・保存整備目的等でこれまで6回調査された。第1・2次 調査では、館を取り囲む堀や池状遺構などを検出。堀は底面が狭くなる薬研堀を呈し、幅約4m、深さ 3mの規模である、その後に検出された堀や現存する土塁からみて、南北方向は90m、東西100mの区 画をもつ。

 発掘調査で発見されたものは、弥勒院跡と同様、海外の陶磁器や土師器などが多量に出土。中国製青 磁・白磁,高麗青磁、タイ・ベトナム産陶器、国内産中世陶器、近世陶磁器など。国内産の中世陶器に は、東播系、東海系、備前系など。近世では、肥前系や在地系のサツマ焼も多量に出土。この他に、滑 石製品,瓦,鉄釘,煙管,古銭,砥石,硯など。注目されるものとして,畿内産の楠葉・和泉型瓦器圷 や土製鍋、15世紀頃の風炉などがある。

 出土した多量の土師器は、この館内で行われた様々な儀式とも深く関係していると思われる。『上井 覚兼日記』には、この館内で式三献の儀式が行われていることが記録されている。

 大宰府編年C期から遺物が多くなることから、桑幡氏は11世紀後半頃には、ここに居住していること が考えられる。

 島津氏が南九州を治める前は、この周辺でも激しい戦いが行われている。16世紀前半の「隅州の乱」 では、本田薫親による正八幡攻めによって、周辺が戦火に巻き込まれ、桑幡氏は櫛間に逃れ、留守氏は 25,6年もの間、宮内を離れざるを得なかったこともあったという。また、16世紀後半に活躍した正八幡 司官の留守式部大輔藤景なる人物は、天正12(1584)年の肥前の有馬氏の合戦に参陣している。戦国期の 体制に組み込まれている神官の姿がそこには看て取れよう。

舞鶴城 鹿児島県霧島市国分中央2
舞鶴朱門
舞鶴城は、国分小学校と国分高校の運動場のある一帯にありました。南側の道路に面して、高さ3メートル、長さ200メートルの石垣とその前の堀、そして2つの石橋が昔の面影をわずかに残しています。島津義久が富隈城(隼人町)から舞鶴城に移居したのは、慶長9年(1604年)のことで、7年間居城されました。館造りとともに城下町(現在の市街地)もこの頃造られました

富隈城 鹿児島県隼人町住吉
富隈城
島津義久が文禄4年(1595)から慶長9年(1604)まで、足掛け10年居住した城です。秀吉の島津征伐に敗れた義久が、上をはばかって謹慎の意を表した隠居城といわれています。長浜城のような山を利用した城と違って、平野に築いた城(平城(ひらじろ))です。

江夏友賢が設計に携わり、石垣は肥後(熊本)八代の石工が積んだものと見られています。石垣の南東隅には、加藤清正寄進と伝えられる清正石という巨石があります。


加治木城 鹿児島県加治木町反土
加治木城
地元の豪族である大蔵氏によって築かれたと伝えられるが、正確な築城年月日や当時の規模などの詳細は全く不明である。

平安時代中期の大蔵氏当主・大蔵良長には男子が無く、やむを得ず娘に婿養子を迎えた。その婿養子が関白・藤原頼忠の三男・藤原経平と伝えられている。経平はそのままこの地に土着し、「加治木氏」を名乗るようになる。

鎌倉時代には御家人として元寇の撃退にも貢献した加治木氏は、このときに絶頂期を迎えたと思われる。その後南北朝時代には一族が足利尊氏方、足利直義方に分裂し混乱する。室町時代には当地の守護大名であった島津氏の配下にあった。

このころの加治木城の実体は不明である。

加治木氏は後に島津季久三男・満久を養子として迎えたが、この満久の息子・久平は突如島津氏に対して反乱を起こし、明応4年(1495年)6月に島津氏家臣の川上氏のいた帖佐(現・鹿児島県姶良市)を攻撃した。これに激怒した島津忠昌は翌年加治木氏を攻撃する。このときに加治木氏は加治木城に立てこもったが、ついに敗れ、阿多(現在の鹿児島県南さつま市金峰町)に異動させられた。

その後加治木城は大隅国の国人である伊地知氏が領していたが、後に肝付氏の分家が加治木城主となる。その子孫である肝付兼演 は島津貴久についたために、貴久と敵対していた菱刈隆秋、蒲生範清らの猛攻撃を受けることとなる。兼演は加治木城に籠城してこの 攻撃に耐え、また貴久も息子の義久、忠平(後の義弘)らに菱刈・蒲生氏側に付いていた祁答院氏の城・岩剣城を攻略させたため、菱 刈・蒲生氏らの撃退に成功する。

日本で初めて、鉄砲(銃)を実戦に用いたことで知られる。天文18年(1549)年5月、種子島の領主・種子島時尭から贈られた鉄砲を使っ て、島津の家臣、伊集院忠朗が大隅国の加治木を攻めたもの。(この他、天文二十三年(1554)の岩剣城・城攻め説。天正6年(1578)、羽柴秀吉が播磨国の上月城攻めに銃を用いられたのが日本での銃の初使用と伝えられる場合もある。)これがのち、鉄砲の噂は次第 に広まり、どうにかして銃を手に入れようと種子島を訪れた者もいた。大坂の堺商人もこの噂を聞きつけ、やがて堺で銃を大する ようになった。次第に諸国の大名の間に銃は広まっていった。島津氏に降伏した肝付氏は、その後、島津氏の重臣となり加治木城を発 展させたが、文禄4年の太閤検地により所替えをさせられ、喜入へと移住していった。秀吉の九州平定後、加治木は豊臣秀吉の蔵入地となる。このころの加治木城の状況は明らかではない。

慶長4年(1599年)、加治木は泗川の戦いの恩賞として島津氏に返還される。それから8年たった慶長12年(1607年)、義弘は突然10年居 住した帖佐から平松(現・鹿児島県姶良市)、そしてこの加治木城へ移転するのである。義弘が「加治木銭」鋳造所もある財力と、秀吉蔵 入地があったという鹿児島には珍しい肥沃な土地に目を付けたのは確かだが、関ヶ原の戦いから7年もたったこの時期になって移住を 決めた理由は未だに謎である。

義弘は当初加治木城を大規模に改築して住むつもりであったが、結局その麓に館を築いて住むことになった。山の上の加治木城があまりに不便であった為とも、この時期の築城が江戸幕府に嫌疑を掛けられたためともいわれている。その後の加治木城はこの館の「後詰 めの城」となり、実質的にこのとき廃城となった。
その後、義弘は「中の丸」「東の丸」という2区画からなる館を築き、元和5年にここで生涯を終えた。


加治木島津屋敷 鹿児島県加治木町仮屋町
加治木島津屋敷
島津義弘は、帖佐、そして平松城から加治木に移られる時、最初、反土の加治木城に引っ越す予定でしたが、諸事情からその計画を変更し、今の加治木高校、柁城(だじょう)小学校、加治木郷土館から於里(昔は御里と書いた)の裏通りまでの区域(約526アール)を選び、慶長12(1607)年、ここに移り住むことになりました。
この場所を城に選び、家臣の屋敷を整然と周辺に配置し、空堀や城壁を造り城域を区画したのは易学者の江夏友賢といわれます。
城は、回りに城壁をめぐらし、厳然とした一都城で、その後、梶井島津家代々の殿様の屋形として、明治の初めまで続いたといわれています。
城中には、東の丸、中の丸、西の丸の3つの御殿があり、東の丸(今の加治木高校)には義弘が住み、義弘公死去の地碑は、御門の跡といわれています。
元和5(1619)年、島津義弘が亡くなった後には、島津家久が起居することになり、家久は別殿を新たに今の柁城小学校の場所に建て、これを西の丸と呼び、別名「中納言御殿」ともいって、近代まで残っていたといわれています。
明治10(1877)年には西南の役により鹿児島が荒廃したため、鹿児島県庁が1年間ここに置かれました。
また、このとき庁舎となった茅葺きで書院造りの御対面所は、加治木島津氏9代の領主島津久長が安政年間に自分の居所として建てられてたものといわれ、明治になってからは、第七郷校、仮県庁、郡役所となった後、昭和20(1945)年まで加治木町役場になっていました。残念ながら昭和20(1945)年8月11日、戦災で焼失しました。
現在は、小学校に残る古い井戸と仮屋馬場沿いの石垣が島津屋形の面影を偲ばせます。
(現地説明板より)


鶴丸城 鹿児島県城山町
鶴丸城
島津家18代家久が慶長7年(1602)に築いた本丸の跡。天守閣をもたない珍しい造りは、「鹿児島は城をもって城とせず、人をもって城となす」の精神からだとか。現在残っているのは石垣のみで、本丸跡の黎明館に隣接する鹿児島県立図書館は、二之丸跡。黎明館前庭には篤姫の像が立っている

横川城 鹿児島県横川町中の城山
横川城
鎌倉時代の初期、承久元年(1219)、横川藤内兵衛尉時信(とうないひょうえのじょうときのぶ)が城山に築城したもので、別名長尾城ともよば れています。城は横川院の領主の居城で、室町時代の頃から真幸院の領主北原氏の支城となりましたが、永禄5年(1562)北原伊勢守・新助の父子が島津氏に反抗したため、島津義弘・歳久等の攻撃を受け、落城しました。
 その後、城は菱刈大和守重猛に与えられましたが、永禄10年重猛の弟隆秋が島津にそむいたため、攻撃を受けました。横川城は島津占 領の後廃城となりました。旧横川町は横川城の全容を探索するため昭和61年10月21日から11月29日まで本丸と思われる城跡の発掘調査 を実施しました。出土品は横川郷土館に保管されています。

松尾城 鹿児島県湧水町木場
松尾城大手門
天正15年(1587年)島津氏によって築かれたと云われる。天正18年(1590年)島津義弘は日向国飯野城より移って居城とした。
義弘は朝鮮の役にはここから出陣し、帰国後文禄4年(1595年)に帖佐館を築いて移り、城代として川上三河守が在城したという

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