星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

足袋蔵めぐり 埼玉県行田市

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忍城の城下町行田の裏通りを歩くと、時折ミシンの音が響き、土蔵、石蔵、モルタル蔵など多彩な足袋の倉庫「足袋蔵」が姿を現す。行田足袋の始まりは約 300 年前。武士の妻たちの内職であった行田足袋は、やがて名産品として広く知れ渡り、最盛期には全国の約8割の足袋を生産するまでに発展した。それと共に明治時代後半から足袋蔵が次々と建てられていった。今も日本一の足袋産地として和装文化の足元を支え続ける行田には、多くの足袋蔵等歴史的建造物が残り、趣きある景観を形づくっている。
日本遺産 足袋蔵めぐり




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将門塚 東京都千代田区

_DSC3316改伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。
その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外(地図)三井物産本社ビル傍にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。






_DSC3317改江戸時代は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭





_DSC3324改この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。
首塚そのものは関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり(後述)、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。






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_DSC3323改築土神社や神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。
そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に都市再開発として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣・早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが丸の内周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去し造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めたという事件である[2]。
結果、首塚はバブル景気後も残ることとなり、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。





[東京都千代田区大手町1丁目2−4]

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小塚原処刑場 東京都荒川区

小塚原回向院小塚原回向院  小塚原回向院は本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のため、1667年に小塚原刑場の傍らに開いた寺院です。文政5年(1822)津軽藩主津軽寧親を襲撃した南部藩出身の相馬大作を処刑して以降、国事犯の処刑場となったため、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰や鼠小僧、高橋お伝の墓など多くの供養碑があります。





小塚原処刑場 解体新書の碑明和8年(1771)蘭学者杉田玄白・中川順庵・前野良沢らが、小塚原で刑死者の解剖に立ち合った。後に解体新書を翻訳し、日本医学史上に大きな功績を残したことを記念して、対象11年に観臓記念碑が建立された





小塚原処刑場 回向院 解体新書改





小塚原処刑場 回向院 説明板小塚原処刑場 回向院 説明板





小塚原処刑場 回向院 墓所1小塚原回向院は、寛文七年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観が、行路病死者や刑死者の供養のために創建しました。





小塚原処刑場 回向院 吉田松陰墓回向院 吉田松陰墓





小塚原処刑場 回向院 墓所2





小塚原処刑場 延命寺 首切り地蔵小塚原処刑場 延命寺 首切り地蔵





小塚原処刑場 首切り地蔵





[東京都荒川区南千住5丁目33−13]

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江戸の古道を歩く ~橋場の渡しから将門塚~

江戸の古道を歩く




下総国との国境である橋場の渡し(現 白鬚橋辺り)と江戸城を結ぶ道は、古くは源頼朝が街道沿いにある鳥越神社に戦勝祈願をした伝承があるなど、江戸時代以前から重要な街道だった。
従って、街道沿いには多くの史跡が残されている。

「十六世紀史跡研究会 第31回研究会開催」 2019年5月19日 より



改 500年以前江戸城下 古道の図500年以前江戸城下 古道の図



松尾芭蕉銅像 南千住駅前松尾芭蕉銅像 南千住駅前





橋場の渡し説明板橋場の渡し





_DSC3200改石浜神社 石浜城





鳥越神社 拝殿鳥越神社





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_DSC3316改将門塚





米沢城下を歩く






会津黒川城とを結ぶ会津街道(会津側からは米沢街道と呼ばれた)の城下の出入り口には照陽寺(上杉憲政菩提寺)、常安寺(上杉謙信開基)、越後街道(越後側からは米沢街道と呼ばれた)の城下の出入りには上田長尾家の菩提寺龍言寺が、参勤交代で利用する米沢街道には福島側の東方と上山川側の北方には寺町が形成され多くの寺院が集められました。特に大身の墓碑は直江兼続が考案した万年塔と呼ばれる独特の形式が採用され、有事の際は取り外しの出来る屋根を外し、防壁、洪水の際は砂や土を積め簡易な堤防になるように計画されました。米沢城の本丸から見て北東の鬼門にあたる三之丸の土塁の上には、鬼門鎮護として五穀稲荷神社が勧請され米沢城の裏鬼門にあたる南西方向には直江家の一族が住職を務め直江兼続が庇護した鳳台寺、北西には聖地である上杉家廟所が配されています(米沢城からはかなり離れていますが南陽市宮内に境内を構える熊野大社も米沢城の鬼門鎮守として篤く庇護されています)。上杉家廟所は米沢城から見ると北西にあたり、本来は城内に改装された上杉謙信の霊柩が有事の際に避難させる場所として想定されていましたが、元和9年(1623)に上杉景勝が死去し葬られると歴代藩主もこれに倣っています。又、城下に収容出来なかった下級武士は城下に近い要衝に幾つかに分かれ半士半農の暮らしを行い現在でもその名残の町並みが見られます(上杉家は120万石から30万石、15万石に石高が減らされても基本的に家臣を強制解雇しなかったとされます)。傾奇者として知られた上杉家の客将前田慶次も米沢城の郊外にある堂森に屋敷を構えていたそうで、近くにある堂森善光寺の境内には前田慶次の供養塔が建立されています。






上杉神社

上杉神社・米沢城跡






上杉神社 謙信公座像
上杉神社 謙信公座像




米沢城絵図
米沢城絵図




上杉家廟所
米沢藩・上杉家廟所




直江兼続墓所
直江兼続・お船方の墓所  春日山林泉寺