星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

忍城 櫻はまだ・・・・・ 2019.3.25

・・・・・・忍城の桜は、まだでしたが暖かく良い天気、週末には咲くかな?
そうそう、先日のTV「お城総選挙2019」では忍城が27位!!基本天守が有り(復元・模擬も含む)一般的な知名度が有るですかね?・・・・途中で爆睡でした(゚Д゚≡゚д゚)エッ!?

武蔵武士の中から、現在の熊谷市上之を本拠地とする成田氏が台頭し、忍城を築城しました。
文明11年(1479)の古河公方足利成氏(あしかがしげうじ)の書状に「忍城」、「成田」とでてくることから、このころには築城されていたと考えられます。
当時の城主は成田顕泰(なりたあきやす)といい、以後親泰、長泰、氏長と四代にわたり、天正18年(1590)まで、約百年のあいだ成田氏が忍城主でした。
永正6年(1509)、忍城を訪れた連歌師の宗長は、城の四方は沼にかこまれていて、霜で枯れた葦が幾重にもかさなり、水鳥が多く見え、まことに水郷である、と日記に書いています。
忍城の築かれた場所は、北は利根川、南は荒川にはさまれた扇状地で、小さな川が乱流するとともに、伏流水が寄り集まって広大な沼地となっていました。そこに残る島や自然堤防をたくみに利用して、忍城が築かれました。






忍城 三階櫓

忍城 三階櫓 模擬(本来在った場所とは違います)




忍城 三階櫓 模擬





忍城 三階櫓3





忍城 大手門




2





忍城 城址碑
忍城 城址碑




忍城 説明板
忍城 説明板


天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになりました。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。





忍城の鐘 1
忍城の鐘




忍城の鐘 2





忍城の白壁





本丸土塁 1





本丸土塁 2





本丸土塁 説明板




天正18年(1590)徳川家康が関東に入ると、家康の四男松平忠吉が十万石で忍城に入城します。
以後江戸時代をつうじて、忍城には徳川の譜代や親藩の大名が城主として入りました。
寛永16年(1639)に幕府の老中であった阿部忠秋が五万石で城主となると、忍城と城下町の整備がはじめられました。
元禄7年(1694)、孫の阿部正武のときに十万石となり、元禄15年(1702)には御三階櫓が完成し、名実ともに忍藩十万石の城としてのかたちが整いました。
文政6年(1823)に阿部氏が福島県の白河へ移ると、忍城には三重県の桑名から松平忠堯(奥平松平氏)が入り、以後明治維新まで松平氏が城主でした。
現在の御三階櫓は昭和63年(1988)に再建されたものですが、江戸時代の忍城ゆかりの遺品として、時鐘があります。この鐘は、享保2年(1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものです。もともとはお城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていました。





蓋神





進修館 表門1
伝進修館 表門




進修館 表門説明板





進修館 表門2




忍城 本丸跡
忍城 本丸跡




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忍城の石垣の石






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湯西川温泉 平家落人の里

久しぶりの湯西川温泉へ・・・・・・・以前来た際には湯西川の落人に関する史跡を見ていなく、今回が初めてになります。
湯西川へは今市方面からと塩原温泉方面からの二通りが有り国道121号線から五十里湖沿いに走り湯西川の道の駅方面に向かうと10K位で「平家落人の里湯西川温泉」に着きます。

たぶん道が新しい道が出来ていました、旧道は狭く渓谷沿いを行くのでかなりクネクネした記憶が有りましたが・・・・・道幅が広く快適に行くと湯西川温泉となる!!



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蝶は、同種であっても羽化する時期で翔の形や斑紋まで違う。まさに造化の神秘。この蝶をもっともみごとに文様に採り入れたのが平家の公達であった。彼らは鎧や兜の裾金物や、直垂などに蝶の文様をつけた。「平家物語」や「源平盛衰記」などにさかんに出てくる。これらの文様が後に家紋に転化していった。ことに平清盛流の者が多用したので後世、蝶は清盛流の代表紋になった。しかし、その美しさで他の家も多く用いている。(丸に揚羽蝶)



まず最初は湯殿山神社は、社殿はこじんまりしているがここが「平家大祭」のスタ-ト地
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「平家大祭」は、今なお平家落人の伝説が残る湯西川温泉ならではの祭り。平家の武者や姫に扮した総勢200名余が練り歩く『平家絵巻行列』は、じつに荘厳。また琵琶演奏や雅楽など、平家に関する催しが繰り広げられ、いにしえの栄華がよりがえります。
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平家集落 風情ある集落が湯西川沿いに続く湯西川温泉来たらここは是非歩きたい所。河原に無料の露天風呂や歴史を感じる公衆浴場、慈光寺、平家夫婦石等平家の隠れ里が色濃く残ります。
平家集落 2




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集落を見渡す高台に位置する慈光寺は、平家落人の菩提寺と伝わり、子宝を授かろうと落人たちが参拝しに来たとの逸話も残っている。




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山門脇の平家夫婦岩




湯西川平家一門の守護神である。建久年間(1190~99)に創建され永正元年1504改築。祭神は高房大明神

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平家の里脇の「平家塚」 東国に都落ちした平家一族は霊峰 鶏頂山(栃木県日光市にある標高1,765mの火山)に身を隠していた。そこで男子が生まれたが、喜びのあまり揚げた幟や鶏の鳴き声によって源氏に発見され追討を受けた。平家一族は湯西川へ落ち延び、安住の地と定めたため武装を解除し、甲冑や刀剣をこの塚に埋めたという。以来、子孫が平家塚と称し、保存と伝承するに至っている。
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「復元 平家の里」 落人たちの生き様や生活様式は、多くの秘話・伝説に満ちています。それらを後世に永く保存伝承する拠点として、復元されたのが平家の里です。
平家の里 0618朝





平家の里 3





平家の里 4



「湯西川赤間神宮」  、昭和60年に下関赤間神宮から勧請した、湯西川赤間神宮が建立されている。下関赤間神宮は安徳天皇の菩提寺である。 (安徳天皇:第81代で高倉天皇の第一皇子。母は建礼門院。平清盛の孫にあたる)
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そしてここが今宵の宿「桓武平氏ゆかりの宿 平家の庄
玄関前の門





玄関
下野の古民家を再生した趣のある宿です!!渓流沿いの露天風呂が又良い!!

クルマで行く「山城さんぽ」・・・・・・(*ノωノ)

クルマで行く「山城さんぽ」、雑誌を見て・・・・本当にアンケ-ト掲載されたんだと、自分のぺ-ジを見てしまいした!!
皆さんそれぞれの感性で、城を見てるのを感じました・・・・・・・因みにP91が自分のです、恥ずかしですがね(*ノωノ)

又中には、数人の知り合いの方も掲載されていました。



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山口県城館を巡る 201709

山口県城館を巡る








*山口城館を巡ったダイジェスト版です( ̄^ ̄)ゞ

西国100名城ツア- 2016.7.8~9

西国100名城ツア-






今回西国100名城は格安ツア-に行って来ました、個人で行くのとで検討しましたが3万なら安いでしょう!!

竹田城、備中松山、姫路城、おまけで岡山城のスタンプを確保する事が出来ました。

まぁこの時期はまだ、梅雨後半で天候は不安定であまり期待していませんでしたが竹田城以外は傘無での探索が可能でしたが、異様に湿度が高く汗でずぶ濡れでした。

一泊でしたが、良い弾丸ツア-でした('ω')ノ・・・・・このdbはダイジェスト版です


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