星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

鞠智城 熊本県山鹿市菊鹿町米原

 麴池城 櫓??
『続日本紀』に、「大宰府をして大野(おおの)、基肄(きい)、鞠智(くくち)の三城(みつのき)を繕治せしむ」と、記載された城である。
鞠智城は、『続日本紀』に記載された文武天皇2年(698年)の城の修復記事が初見であり、築城年は不明である。しかし、発掘調査では少なくとも7世紀後半~10世紀中頃まで約300年、存続したことが判明している。そのため、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた水城・大野城・基肄城と、ほぼ同時期に築かれたと考えられている。また、八角形建物跡や銅造菩薩立像の出土などは、百済からの亡命者が関与したことが窺える。
鞠智城は、標高約90~171メートルの米原台地に所在する。城壁の周長は、自然地形の崖を含めて約3.5キロメートル、城の面積は約55ヘクタールである。直線距離で大宰府の南、約62キロメートルに位置し、古代山城では最も南にある城である。また、有明海に注ぐ菊池川の河口の東北東、約30キロメートルの内陸部で、流域は肥沃な平野が広がる。城の南側は、古代官道が推定されている交通路の要衝に位置する。




菊地史跡公園図





菊地城 城址碑





麴池 石像



発掘調査では、国内の古代山城で唯一の八角形建物跡2棟(2棟×2時期)・総計72棟の建物跡3か所の城門跡・土塁・水門・貯水池などの遺構が確認されている。また、貯水池跡では、付札木簡と百済系の銅造菩薩立像が出土している。
鞠智城の築城当初は、大宰府と連動した軍事施設で、大野城・基肄城などとともに北部九州の防衛拠点であり、兵站基地や有明海からの侵攻に対する構えなどが考えられている。そして、修復期以降は、軍事施設に加えて、食料の備蓄施設の拠点、南九州支配の拠点などの役割・機能などが考えられている。
鞠智城は、7世紀末の律令制の導入時に、役所機能のある肥後北部の拠点に改修されたと考えられている。発掘調査で大宰府と連動した施設の改修と変遷が確認された特異な城跡である。また、他の古代山城は国府の近くに所在するが、鞠智城は城自体が役所機能を有するなど、特殊な古代山城といえる。そして、8世紀後半以降は、倉庫が立ち並ぶ物資貯蔵機能に特化した施設に変化して終焉を迎えたとされている。




菊地城 倉庫





菊地 深迫門跡





菊地城 遠景

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菊池城 熊本県菊池市隈府町城山(菊池神社)

菊池神社 鳥居
菊池神社
菊池氏の本拠であった通常、菊池氏の本城(居城)を隈府城とするので、別名で隈府城(わいふじょう)とも呼ばれる





菊池神社 拝殿
菊池神社 拝殿




菊池十八城と呼ばれる城砦の一つで、正平年間に菊池武政により築城された[2]。菊池氏は九州における南朝方の有力者で、後に肥後守護に任じられ現菊池市は城下町として栄えた。戦国時代に入ると菊池氏は内紛を繰り返して衰退し、家督を阿蘇氏や豊後大友氏に奪われ菊池氏正統は没落した。
後、菊池氏の一族で菊池三家老の赤星親家が城主となるが、同じ菊池三家老の隈部親永に圧迫され、1578年(天正6年)親家の子赤星統家の時、龍造寺氏と結んだ親永によって赤星氏は菊池城を追われた。1580年(天正8年)親永が入城し、北上する島津氏と対峙したが、隈部氏は篭城してこれを凌いで島津氏と和睦し所領を安堵された。
1587年(天正15年)羽柴秀吉の九州平定後、親永は佐々成政の配下に組み込まれるが、同年親永が菊池城に拠って成政に反抗したため、反乱が鎮圧された後に菊池城は破却された。




菊池城本城本丸の石碑
菊池城本城本丸の石碑
菊池城は菊池市の北東山麓に位置し、周囲に空堀跡や土塁跡が残る。明治維新後、勤王菊池氏を顕彰して本丸跡に菊池神社が建てられた。菊池神社の参堂脇公園に菊池武光騎馬像があり、境内には菊池武時騎馬像、第二次世界大戦で特殊潜航艇艇長としてシドニー湾に突入して戦死した松尾敬宇中佐の胸像がある。

打越城 熊本県菊池市七城町

打越城 入り口
南の県道53号線沿いに道標が出ている。墓地の脇を通る切通の南端から東の山上に登る道が付いており、この上に石碑と案内板がある。





打越城 城址碑
築城年代は定かではない。菊池十八外城の一つとされ、城主は林原与三隆益で林原氏累代の居城という。
康暦元年(1379年)今川了俊との板井原合戦の舞台となり、今川軍によって攻め落とされた。
菊池氏が滅亡した後は怒留場飛騨守が城主となったという・・・・・・遺構は無いと思われる。

菊之池城 熊本県熊本市

菊池城 遠景
菊之池城 遠景
この城は深川城・菊池古城・雲上城とも呼ばれ、周辺の平地部に比べ少し高い   なっているが『菊池風土記』に『深川 、北宮の田の中に一丁 の  、高く四方  石垣築き廻したるところ有り』と、周囲に をめぐらすことによって城の形を保っている。
菊池十八外城の一に数えられるが、時代的には他の城に比べ最も早期のもので、この菊之城から三百年を経て隈府山城へ至る。山城としての防備上の変遷があった。
この城跡は一様な平担地でなく、1メートル未満の段差によって、25メートル×50メートルと53メートル×65メートルの両区画に分かれている。また明時代のものと推定される青磁片が出土したことがある。
このように、周囲の構造と状況からみて城跡というより、館跡と考えた方が妥当と思われる造りである。
菊池市教育委員会(現地案内板より)



菊池之城 城址
菊之城は土塁と堀壕で囲まれた広い屋敷を持つ館であったと思われる。後に守山城に移るまで、この居館を中心に営々として領内の開発に努め、さらに菊池氏歴代が南朝方に味方した拠点であった。






菊之地城 城址碑





菊之池
菊之池
菊池初代則隆が菊池に下向したとき、この深川に館を構えた。『菊池餘芳』によれば、・・・ 深川村に広大なる池あり。其形花様をなし、池辺一体菊花乱開して紅白爛漫たり。則隆公即ち名付けて菊の池と称せり。且つ此池池水漫々として漲り、旱魃(かんばつ)の際河水乾涸するも池水は尚涸るることなく郡中の田を濕せり。
是れ当家を起こすの吉端なりとて則隆公即ち氏を菊池と改め、其城郭を菊の城と称し、郡も菊池と称えたりと云ふ。

とあるが、則隆が菊池に下向してから千年近くを経った。現在は水は涸れ周囲の環境は変わって、昔をしのぶことはできない。
ただ、地名だけは『菊之池』として残り、この地区の小学校の名称も『菊之池小学校』と呼ばれ、昔の面影をとどめている。
菊池市教育委員会(現地案内板より)




菊池則隆の墓
菊池則隆の墓
菊池則隆は大宰府天満宮領赤星荘園の荘官として延久2年(1070)、この肥 で水運の便のよい菊池平野の一角、深川に拠って居城を構え、地名をとって菊池を氏とした。
深川は穀倉地菊池の中心であり、当時は佐保川から菊池川本流に通じる交通の要衝でもあったので、この地を拠点に勢力を伸ばし、早鷹天神(菊池市赤星)・老松天神(西合志町弘生)・山崎天神(熊本市)・田口天神(甲佐町)および玉名市の川崎・高瀬・津留の天神を勧請した。これらは菊池氏が荘園の防備保全のため勧請した荘園神でもあり、荘園内での押領など不法を働く荘官、住人に対し天神の怨霊の力を示すものでもあった。この地には南北朝の頃まで累代居館が続いた。
則隆の墓は文化15年(1818)に創建され、明治・大正の工事を経て現在の状態になった。
菊池市教育委員会(現地案内板より)

八代城 熊本県八代市松江城町

八代城





元和5年(1619)の大地震でそれまでの麦島城が崩壊したため、加藤正方が麦島城北方に新たに築いたのが八代城で、同8年(1622)に竣工しました。石垣に石灰岩を使用し別名白鷺城ともよばれます。加藤家改易の後、寛永9年(1632)細川三斎(忠興)が入城、正保3年(1646)には松井興長が入城し以後松井氏九代の居城となりました。一国一城令の例外として熊本城以外に認められた城で、八代の地が幕府から重要視されていたことがわかります。
 





八代 城址碑
八代 城址碑




八代城址
八代城本丸 八代宮




八代城 石垣
八代城 石垣と堀




八代城 説明板
八代城 説明板