星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

勝栄寺土塁 教訓状発祥の地 山口県周南市

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勝栄寺は、陶弘政を開基とする時宗寺院(現在は浄土宗)です。創建されたのは、陶氏が富田保へ移住して間もない時期(1350〜80年)と考えられています。
 この時代の時宗は、布教と併せて北朝方の動静をさぐり、南朝方の連絡をすることにあったとみられており、富田保が大内惣領家の橋頭堡的位置を占めていたことからして、勝栄寺の政治的・軍事的性格は強まらざるを得ませんでした。
 勝栄寺は、江戸時代の「防長寺社由来」絵図に土塁と濠が描かれており、土塁の北・西部は今日まで残存し、濠も近年まで蓮田としてその面影をとどめていました。
 南北朝動乱期の陶氏が置かれた厳しい立場からみて、この時期に防御施設として、土塁や環濠が設けられたのではないかと考えられています。
 繁栄した中世の富田保や富田津の歴史だけでなく、めまぐるしい動きをみせた中世防長史の舞台として、現存する数少ない貴重な史跡です。




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現地説明板より




1557年(弘治3年)11月25日に周防富田(現・山口県周南市)の勝栄寺で書いた元就の自筆書状。60歳を越えていた元就が、3人の息子たちに(他の子どもたちを含めて)一致協力して毛利宗家を末永く盛り立てていくように後述の14条に渡って諭している。
1546年(天文15年)に元就は隠居を表明して、長男の隆元が家督相続をしていたが、これは形式的なものであり、実質的な毛利家当主は引き続き元就が務めていた。そして、防長経略で周防国・長門国を勝ち得た1557年には毛利家の実権を隆元に譲ろうとしたものの、隆元が「防長まで拡大した領国を治めるには、父の後見が必要」として元就の隠居に強く反対して翻意を促し続けた。やがて、同年11月初旬に周防で大内残党が挙兵したため、隠居を思いとどまった元就は、隆元を後見して親子で防長に出陣。元就らが周防に到着した頃には、大内残党の蜂起は既に内藤隆春らの働きでほぼ鎮圧されていたものの、大内氏残党のみならず尼子氏や大友氏との戦いが続くであろう毛利家の今後を案じた元就は、陣中で教訓状をまとめた。
この教訓状は、文字通り3人の息子たち宛てに書かれたものではあるが、「兄弟が結束して毛利家の維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書であり、単なる教訓とは異なる」「毛利家の公式文書としての色合いが強い」とされる。そのため、教訓状の続きとなる短い書状(毛利家文書406号)が隆元宛てに書かれている。この書状では、「当家のことをよかれ思うものは、他国はもとより、当国にもいない」「毛利家中にも(中略)当家をよく思わない者もいる」「兄弟の仲が悪くなれば(毛利家は)滅亡すると思うように」などと書かれている。





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勝栄寺の山門




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勝栄寺の本堂




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現地説明板




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勝栄寺の板碑





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杉屋敷 山口県周南市

中世の徳山は野上庄といわれ、しばらくの間、陶氏がこの地方を治めていました。14世紀になると、陶弘政の有力な家人である野上氏が配置され、陶氏の重臣として活躍したといいます。
 弘治元年(1555)、陶晴賢の厳島での敗死に端を発し、陶氏が滅ぶと野上氏も運命をともにしました。野上氏が滅ぶと杉元相がかわって野上を支配しました。元相は金剛山下のみはらしのいいこの地に居館を構えました。毛利氏に仕え勘解由判官と称し興元寺を建立しましたが、その子元宣は天正17年(1589)野上庄沖で横死し、杉氏はわずか20数年で断絶しました。




杉屋敷 全景
杉屋敷 全景



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徳山動物園南第二駐車場が屋敷跡となります



杉屋敷 説明板
杉屋敷 説明板






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岩国城 山口県岩国市

岩国城城下を巡る








慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。同時に一族であり毛利家存続に注力(結果的に毛利氏は領土を大幅に削減された)した吉川広家も同時に米子城から当地に3万石で封じられた。
慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。
しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却したことに合わせざるを得なかったことによる。その後、麓の土居は岩国領の陣屋として、また慶応4年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。
岩国領は本藩である長州藩より長期にわたって独立した支藩として認められず、陪臣として扱われた。これは、関ヶ原の合戦時に吉川家のとった行動が、毛利家中で評価されなかったことと深く関わりがあるとする説があるが、実際には長府藩や徳山藩が長州藩主の子孫による分家として宗家継承権を有していたが、吉川家にはそれがなかったなどの事情があったとされている。当藩は明治維新の年、慶応4年(1868年)に漸く独立の藩として認められ諸侯に列したが、明治4年(1871年)には廃藩置県によって廃藩とされたため、正式に独立した藩の藩庁として機能した時期はわずかだった





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岩国城と錦帯橋




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「土居」跡に建つ錦雲閣と水堀





岩国城










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岩国城天守(再建)




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旧天守台




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天守からの展望






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周防源氏武田氏館 山口県岩国市

安芸武田氏の 武田光和 は正妻(八重女)との間に嫡子がないまま、天文9年(1540) 33歳の若さで病没した。
後継者として、光和 の甥 信重 (光和の妹婿 繁清の子<繁清=伴城主、別名 伴五郎>)と若狭の 武田信実 の案があったが、結局、 尼子氏や重臣たちの推挙した 信実 を養子に迎え家督を継いだ。が、その時、重臣 品川氏らの「毛利・熊谷氏に対し直ちに”元繁”光和” の弔い合戦をすべし」という強硬派に対し、八木城 主香川光景らは「一旦 毛利氏と和睦し時を見て合戦をすべき」と主張したが、受け 入れられず、重臣間に決定的な亀裂が生じた。その結果、香川光景は武田と袂を別ち、毛利よりの行動をとることになる。
 その香川光景 は、光和の愛妾との間に生まれた小三郎を安芸武田氏の後継にし、銀山城主となるよう 毛利元就 に助勢を求めた。 助勢の約束した元就は天文9年(1540) 一旦、小三郎と八重女を「玖珂」に住まわせ、翌年の天文10年(1541)、元就 は銀山城を落城させ た(香川光景は毛利方として参戦)。 信実は尼子氏を頼って敗走し、再び安芸に戻ることは無く、ここに安芸武田氏は滅亡した。
 しかし、小三郎を城主に迎える約束は果されなかった。その後、成人した小三郎は元就に仕え身辺の護りや戦の案内役なに勤めた。 やがて小三郎は入道して「宗慶」と名乗り周防武田氏の祖となった。
 時代は過ぎ、文政元年(1818)12代 「武田宗左衛門」は、文武両道の 「稽古屋敷」 を設け、郷士の子弟などに文武を教えた。 これが明治時代の、「中野小学校」の前身となる。
 周防武田家は、小三郎以来、玖珂の武田屋敷に376年間居住し、江戸、明治、大正と、町の教育の振興に力を尽くされた。
 その後、大正6年、16代 「武田甲斐人」氏のとき、広島県呉市に移住して、現在の「呉武田学園」の前身「大正中学校」を創設し、 稽古屋敷創設以来、今日まで代々190年間も育英事業にあたっておられる。
現地説明板より





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舘跡入り口




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現地説明板・・・・・・何やら門までが、草が!!




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武田氏館門




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門を入ると右側に、「 文政元年 稽古屋敷創設之地 創立者武田宗左衛門 」 と書かれた石碑や井戸がある。




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屋敷の奥は武田氏の墓所になります、、「武田信宗」、「光和」 の墓をはじめ、比較的新しい現代までの代々の武 田家の墓が並んでいる。さらに奥に進み緩やかな裏山の墓所に、「小三郎」、「八重女」、「光信」 などの墓がある。 





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冷泉屋敷 山口県岩国市

築城年は不詳だが、大内氏家臣の冷泉判官隆豊が居住したといわれる。冷泉氏は大内氏の庶流で、興豊の時にその妻が冷泉氏にゆかりがあるということで冷泉氏を称した。隆豊は興豊の嫡男で、天文20年(1551)陶晴賢謀反の際、大内義隆を守って奮戦するも、義隆に殉じた。

現在は小高い丘にの上に冷泉神社が建ち社殿の脇には古い五輪塔が沢山在ります。



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舘跡の遠景



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山頂には冷泉神社が祀られています



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沢山在る古い五輪塔




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舘跡からの展望




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