星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

秀次居館(八幡山城) 滋賀県近江八幡市

八幡山館 説明板より
説明板より
山城部分とは別に築かれた南山麓の居館部分である。谷地形の中央部分、標高約130mの地点より雛壇状に曲輪が配されており、最上部に位置するのが秀次居館跡で、巨大な内枡形の食い違い虎口があり、その西側には二段、東側には四段の高石垣を構えている。秀次居館跡の石垣も隅部分は算木積みで積まれており、直接的に傾斜する。この部分の築石は部分的ではあるが、鏡石積みで八幡山城の石垣石材の中で、非常に大きな石が使われており、権威の象徴的に使用されている。居館曲輪の平坦地は、東西300m×南北100m余りの大平坦地となっており、山斜面を切り土と盛り土から造成されていることが発掘調査から判明した。下部の家臣屋敷曲輪は誰が居を構えてと思られる。



八幡山館 家臣団屋敷の石垣①
家臣団屋敷の石垣




八幡山館 秀次館への大手路
秀次居館跡への大手道




八幡山館 石垣
秀次居館跡の石垣・・・・この上が居館跡だが、藪が・・・・・・・・

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長浜城・宮川陣屋・下坂氏館

長浜城・宮川陣屋・下坂氏館



下坂氏館跡は、滋賀県北部の長浜平野の南西部に位置し、東に伊吹山麓、西に琵琶湖を望む。館跡の北側に姉川を源とする五井戸川が流れ、自然堤防上の微高地で周辺を森に囲まれた小高い場所に位置している。
下坂氏は近江国坂田郡下坂庄の国人領主である。下坂庄は下坂中、大戌亥、高橋、下坂浜の四ヵ村からなっている。
 下坂氏は建武3年(1336)7月の足利直義からの感状を始め、佐々木氏・京極氏・浅井氏との関係を示す史料が存在する。特に天文11年(1541)頃から、京極氏や浅井氏との関係を示す文書が数多く出現し、天正元年(1573)浅井氏滅亡までの下坂氏との関係がよく分かる。これらの文献は697点に及び、下坂家文書として市の指定文化財となっている。
 下坂氏館跡の現在の遺構が室町時代に完成していたことが史料から分かるとともに地理的条件、占地、城郭の構造からみて、典型的な中世の平地城館遺構である。
 浅井氏滅亡以後は下坂氏は帰農するが、現在も館跡に居住し当主は下坂氏の子孫である。

遺構は、東西約89m、南北約87mの範囲において、高さ約1~2m、幅約2~5mの2重の土塁で囲み、幅約5~13m、深さ約1~3mの堀が現存している。南側で土塁、堀が失われているが復原が十分可能である。主郭は東西約55m、南北約42mの内側土塁によって囲まれ、その北東側と南西側の2つの副郭により構成され、南西側の副郭は一段高くなっており、武者たまりと考えられる。下坂家の伝承では、その副郭に有事の際に立籠もり、防戦につとめたと言う。内側土塁の東側に高さ約2m、幅約7mの虎口を設けており、東側平坦部の東西約75m、南北約45mの腰郭へと続く。また、下坂家の菩提寺である不断光院の東側に幅約5m、長さ約30mの土塁が現存しており、さらに南東部に土塁、堀が設けられていたと思われる。
 館内南東に下坂氏の菩提寺で木造入母屋造茅葺の不断光院の本堂と切妻造茅葺の門がある。古くは天台宗に属して西福寺と称していたが、後鳥羽上皇の皇子が当寺で薙髪して高雲山不断光院と称したのを機に寺名を改めた。観応年間(1350~1351)に再興され、浄土宗に転じ現在に至る。館中央に切妻造茅葺の門と木造入母屋造茅葺の主屋と主屋の北東と南西に屋敷社が祀られている。不断光院及び主屋の建築時期は18世紀前期と考えられ、門も同時期と考えられる。
 下坂氏館跡は室町時代の土塁、堀、主郭、副郭、腰郭の遺構が残っており、滋賀県下においても屈指の平地城館遺構である。下坂氏は京極氏との関係や浅井氏との関係上重要な存在であり、遺構の残りもきわめて良好で貴重である。

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宮川藩は、江戸時代に近江に置かれた譜代(ふだい)の小藩です。領主は、堀田氏といいます。堀田氏は、もとは上野国(こうずけのくに)吉井藩の領主でしたが、元禄(げんろく)11年(1698)に、移ってきました。参勤交代を行わない定府大名です。領地は、坂田・愛知・蒲生・甲賀の4郡1万石で、坂田郡宮川村(現:宮司町)に陣屋を置きました。

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1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。

同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年(元和元年)に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので市立長浜城歴史博物館として運営されている

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玄蕃尾城(内中尾山城)~柴田勝家の本陣!!

玄蕃尾城(内中尾山城)

滋賀県長浜市余呉町柳ケ瀬北尾624

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福井県と滋賀県の県境にある柳ヶ瀬山(標高420m)の頂上にあり、北国街道と刀根越間道との分岐点に位置する。城は、天正十一年(1583)北ノ庄城主・柴田勝家が賤ヶ岳合戦時の本陣として築城される。本城は、尾根上に巧みに配置された4郭構成で、各郭には空堀や土塁で区画されるとともに、土橋や馬出し遺構で繋がっている。本丸は、高さ0.6~2mの土塁で囲まれ、東・南・西の三方には幅約12m×深度6~7mの大規模な空堀が廻らされている。東北隅には礎石を用いた櫓台があったと推測される。築城形態については、本丸の櫓台や有機的に配置された郭、機能的に築造された土塁や幅広く深い空掘、土橋、巧妙につくられた虎口や馬出しなどが具備され、現存する越前、若狭の朝倉氏や武田氏などの山城の中で最も発達した構造を示すものと考えられる



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彦根城~徳川四天王、井伊氏の居城

彦根城

滋賀県彦根市

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徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領しているが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていた。これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権勢の象徴物へと変じたためであり、江戸幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として江戸時代の大半を過ごした。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

幕末における幕府の大老を務めた井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している
Wikipedia:ウィキペディアより




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佐和山城~石田三成の居城

佐和山城



滋賀県彦根市佐和山町

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 鎌倉時代、佐々木定綱の六男、佐保時綱がこの地に館を構え、15世紀中頃には、六角氏の支配のもとに小川左近大夫を城主として、犬上坂田両郡の境目の城となったと伝えられている。
 戦国時代、佐和山城は度々戦乱の舞台となり、多くの武将の居城となった。なかでも、元亀元年(1570)の姉川合戦では、敗走した浅井勢の磯野員昌が籠城し、8か月にわたる攻防がくりひろげられた。のちに「難攻不落の城」と称えられた所以である。
 その後、丹羽長秀・堀秀政・堀尾吉晴と引き継がれ、石田三成のとき「佐和山惣構」の普請が行われた。

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