星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

多気北畠氏館 三重県津市

多気北畠氏館





北畠氏と伊勢国「北畠氏」と伊勢国との関わりは、『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の作者としても知られる北畠親房(ちかふさ)が延元元(1336)年に伊勢国田丸城(現在の玉城町田丸)を拠点としたことに始まります。北畠氏は伊勢神宮の存在や南朝を支持する南伊勢の諸勢力、及び吉野朝廷(南朝)と東国との連絡経路等について考慮し、伊勢国に拠点をおいたものと考えられます。
親房自身はやがて常陸国(ひたちのくに)に移りますが、次男顕信(あきのぶ)と三男顕能(あきよし)は伊勢にとどまり、延元3(1338)年に顕能が伊勢国司となります。その後、南伊勢の各拠点が北朝方の攻撃を受け、興国3/康永元(1342)年に田丸城が落城すると、北畠氏はほどなく多気に拠点を移し、霧山城や館を築いたといわれています。
 
南北朝が統一された後、北畠氏は伊勢国司としての地位を保ち、守護大名として室町時代を生き抜いていきます。往時の北畠氏の勢力範囲は、拠点である多気の地だけにとどまらず、およそ旧一志郡以南の諸地域に及び、隣国である伊賀国や大和国の南部をもその支配下におさめていたといわれます。
また、永正18(1521)年頃の築造と推定される細川高国による北畠氏庭園跡が象徴するように、都からはるかに離れた多気の地に、京都や大和・尾張・美濃などを中心とした様々な文化や品物が流入しており、文化都市的な色彩も強くうかがわれます。
しかし、天正4(1576)年、伊勢国司北畠家も時勢には逆らえず、織田信長の天下布武の動きの中で侵攻を受け、ここに約240年続いた多気北畠氏の歴史は幕を閉じることになりました






北畠氏館碑
多気北畠氏館





北畠神社
北畠神社





館の庭園
館の庭園

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松阪城 三重県松阪市

松阪城





松阪城は1588年(天正16)松阪市北部の独立丘陵に、伊勢湾に面した松ケ島城に代わる城として築城の名手蒲生氏郷が新たに築城したもの。氏郷は安土城の築城に携わっており、出身地の当時の最先端の技術集団を使い安土城とよく似た縄張りや構造を持った城をこの地に造った。松阪城は本丸、二の丸等、総石垣造りの各曲輪によって構成されており、その周囲には土塁が巡っていた。本丸には安土城に似た天守が建てられていたという。また氏郷は城下町の建設にも積極的に取り組み、楽市楽座を定め、町の中央には生まれ故郷の近江日野の商人や、湊町には伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せるなどし、城下町を作り上げた。



松阪城城址碑
松阪城城址碑




松阪城 天守台
松阪城 天守台




松阪城 本丸からの展望
本丸からの展望




御城番屋敷
御城番屋敷 松阪城を警護する「松阪御城番」という役職の武士が20人とその家族が住んで居た屋敷

津城 三重県津市

津城




織田信包(信長の弟)が天正8年(1580)に津城を創築。
以後、 津は城下町として発展してきました。本丸を中心に出丸を置き、幾筋かの河流を城の外堀に取り入れたもので、 低湿地ながら防御には堅固な城でした。
その後、藤堂高虎が四国伊予の今治(愛媛県)から移封、 慶長16年(1611)に大規模な改修を行い、北側の石塁を高く積み直し、その東北と西北の両すみに三重の櫓をつくりました。
また、城の周囲に武家屋敷をつくる一方で、伊予から連れてきた町人たちを岩田川の南に住まわせて、 伊予町をつくりました。
さらに高虎は、参宮街道を城下に引き入れたり、城の東に堀川を切り開いたりして津の基礎づくりを行いました。 2代藩主高次はそれをもとに城下を整備、明治維新まで津は32万石の城下町として栄えてきました。
明治になっても町はほとんど旧城下町のままでしたが、明治の終わり頃になって外堀が埋められ、 新しい道や町が作られるようになってきました。
現在では、本丸・西の丸・内堀の一部を残すのみとなりましたが、 復興された角櫓の三層の白壁に老松がはえ、苔むす石垣とともに昔を偲ぶことができます





藤堂高虎騎馬像
藤堂高虎騎馬像




津城 内堀
津城 内堀




津城 櫓
復元された櫓




津城 天守台
津城 天守台

田丸城 三重県玉城町

大手橋から本丸迄


本丸から大門跡




改 田丸城@ヤマシロ

㊟現地説明板を参考にしたイメ-ジ図です




南北朝時代初めの1336年(建武3・延元1)、南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれる。親房の三男北畠顕能が伊勢国司となって以降は、この城は国司館として伊勢支配の拠点となった。しかし、伊勢神宮を押さえる戦略的要衝であったため、南朝・北朝による争奪戦が繰り広げられ、1342年(康永1・興国3)に足利尊氏によって落城している。北畠氏は戦国時代に入ると戦国大名となったが、北畠氏が北勢(伊勢国北部)に拠点を移すと、北畠氏庶流の第5代北畠政郷の四男顕晴が田丸城に入り田丸氏を称した。織田信長の伊勢侵攻後、城主の田丸直昌は城を明け渡して織田信雄に仕えた(直昌はその後、紆余曲折を経て江戸幕府の旗本となった)。その後、北畠具教が織田信長の二男信雄を養嗣子とすることで信長と和睦をしたことから、田丸城は1575年(天正3)に信雄の居城として改築が行われ、3層の天守を備えた近世の城郭になった。しかし、その5年後、火災により天守を焼失したことから、信雄は松ヶ島城(松阪市)に居城を移している。その後、田丸城には蒲生氏、稲葉氏、藤堂氏が相次いで入城し、1619年(元和5)には、紀州徳川家(紀州藩)の属城となり、徳川頼宣(紀州徳川家初代)は付家老の久野宗成を田丸城城主として田丸領6万石を経営させた。以後、田丸城城主は久野氏8代が続いて明治維新に至る。ちなみに、大岡忠相(のちの江戸町奉行の大岡越前守忠相)が山田奉行をつとめていた時代、経営する天領と田丸領との間に、領地をめぐる争いが起こっている。明治維新後、田丸城の建造物のほとんどが取り壊されたため、主郭部には建物は残されていないが、織田氏の城郭の特徴を残した天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構が良好な状態で現存され、本丸周辺は桜の名所としても知られる城山公園になっている。三の丸御殿跡は現在、田丸中学校の敷地になっている。また、明治に入り、他所へ移築されていた富士見門、三の丸の奥書院なども同公園内に再移築された。





外堀 田丸城
外堀 田丸城




田丸城城址碑
田丸城 城址碑







二ノ丸虎口
二ノ丸虎口




天守台
田丸城 天守台














三瀬館(北畠具教館) 三重県大台町

三瀬館(北畠具教館





三瀬館@ヤマシロ
㊟イメ-ジ図になります(。>ω<。)ノ



三瀬館跡は、上三瀬の北側にある鎌止山の裾野にあり、北畠具教は、裾野をほぼ三段に改修し、館の敷地を作った。
そして、ここに館を築き、松阪の大河内城から移った具教は、天正4年(1576年)に謀殺されるまでの4年間、居住していた。
しかし、敷地のどこに、どのような造りの家に具教が住んでいたのか、資料が発見されていない現在では、明らかではない。
館跡の西と南側には、万一の防備に役立つ深い谷川が流れていて、東と北側は山の急斜面になっている。
また、南側は開けており、三瀬一帯と宮川を隔てて舟木や度会の山々を見渡せることができる。
青年のころに具教は、当時「剣の達人」と言われた塚原ト伝から「一の太刀」の秘伝を受け、師匠の卜伝との居合わせでは、互角だったという話も残っている。
このように武道に秀でた具教にとって、名門の流れをくむ北畠家が、日に日に凋落していくのは我慢ならないことだった。
具教、熊野街道が通り、宮川流域の山深い要害の地(上三瀬)に館を築いて移り住み、機会があれば北畠の勢力を復興しようと、いろいろと画策したようである。

当時の伊勢地方の戦乱の様子を書いた「伊勢軍記」に、具教の三瀬隠居のことが次のように述べられている。

「具教卿は城を多気郡三瀬に立て、之に居住し給う。故に三瀬御所と号す。此谷、宮川の上、大杉山にありて、熊野、吉野、川上に続きて嶮難無双(たいへん山が深く険しいこと)の地なり。兵乱あるときは此の山中に入らんが為なりと言う。」







三瀬館碑
三瀬館碑(北畠具教館)





削平された郭
削平された郭





物見の茶臼山
物見の茶臼山