星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

白河関/関ノ森城 福島県白河市

白河関/関ノ森城




完成 関ノ森城@ヤマシロ㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/





設置時期は明らかでない。『類聚三代格』承和2年(835年)太政官符では、白河・菊多(勿来)の関を設置して以来400余年と見え、承和2年当時には5世紀前半の設置と認識されていた。
六国史における白河の初出は718年(養老2年)5月2日 (旧暦)に陸奥国から「白河」など5郡を分割して石背国を設置するという記事で、その後728年(神亀5年)4月11日 (旧暦)には白河軍団の新設を許可、そして神護景雲3年(769年)3月13日には陸奥国大国造道嶋宿祢嶋足の申請によって何らかの功績を果たしたらしい者への賜姓付与が行われ、白河郡では丈部某と大伴部某がそれぞれ阿部陸奥臣および阿部会津臣を授かっている。また宝亀11年(780年)12月22日には陸奥鎮守府副将軍の百済王俊哲が賊に囲まれ危機に瀕したが「白河」の神など11神に祈ったところこれを突破できたとして弊社に加えることを許可している。承和2年(835年)12月3日の太政官符(『類聚三代格』)では、俘囚の出入りや不正商品の通過の検問を長門国関(赤間関)と同様に取り締まることが許されている。
こうしたことから、ヤマトの軍事的要衝としての白河関の機能は平安中期には解消したものと考えられている。源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した時に、梶原景季に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。 関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。
1960年代の発掘調査の結果、土塁や空堀を設け、それに柵木(さくぼく)をめぐらせた古代の防禦施設を検出、1966年(昭和41年)9月12日に「白河関跡」(しらかわのせきあと)として国の史跡に指定された。
なお、白河関にちなみ東北地方および北海道をまとめて「白河以北」と称する場合がある。宮城県の地方紙「河北新報」の名は、これに由来する。

この南側の遺構が全て白河関の遺構とは思えない・・・「関ヶ原の戦い」の際に上杉家の改修がなされて当然と思える!!





白河関跡





土橋から虎口へ土橋から虎口へ





北側の空堀北側の空堀





東側の張り出し東側の張り出し





張り出しから見た郭内張り出しから見た郭





[福島県白河市旗宿関ノ森84]

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白川城 福島県白河市

白川城






完成 白川城 御本城山@ヤマシロ
㊟現地説明板を参考にしました♪(o・ω・)ノ))
白川城は、東北本線白河駅より東へ約3Kmの藤沢山にあり、通称「搦目(からめ)城」ともいわれている。阿武隈川と社川の支流である藤野川に挟まれた、標高約400m級の丘陵地を利用し築かれた、中世の山城である。史跡の面積366,597.43平方メートル。
文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐に参加し,功名をたてた結城朝光は、その恩賞として白河庄の地頭職(じとうしき)を与えられた。その後、朝光の孫の祐広(すけひろ)が正応2年(1289)頃、下総結城より移住して、この白川城を本拠としたと伝えられている。
祐広の嫡子の宗広は、後醍醐天皇の命により新田義貞らと共に鎌倉幕府を倒し、建武の中興(1334)を実現させた。その後、南北朝時代には義良親王(のりながしんのう)・(後村上天皇)を奉じて、北畠顕家と共に、北朝方の足利尊氏と戦った奥州南朝派の中心人物である。
白川城の存在した時期については、明らかではないが、南北朝時代の文書にその名が見られることや、「山城」という城の形態から、築城年代は南北朝時代と考えられる。また、永正年間(1504~1520)には、白川結城氏の本城は小峰城に移ったものと推定される。
現在、白川城は御本城山と呼ばれる主郭、その北側藤沢山には二之郭、主郭の東側には鐘撞堂とされる平場がある。これらの郭の周囲には、幾段かの帯曲輪が構築されている。また、郭と郭の間には土塁や空堀などの遺構が確認されている。
なお、近年の踏査により指定区域の南西部の丘陵にも遺構の存在が明らかとなり、城域がさらに拡大するものと考えられる。






白川城 本丸入り口





本丸手前 堀切主郭手前の堀切





白川城 本丸白川城 主郭





藤沢山北部の巨大な土塁藤沢山北部の土塁





DSCF9079.jpg
結城宗廣公供養塔





[福島県白河市藤沢山7−6]

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関山城 福島県白河市

関山城



完成 関山城@ヤマシロ㊟イメ-ジ図になります(-ω-)/

天平2年(730)に行基により開基されたのと伝承をもつ満願寺。
源義経が先勝祈願のため参詣したとも伝わり、さらに松尾芭蕉が曽良と共に白河関後を訪れた後、白河城下に向かう途中でこの関山に登ったとの言い伝えもあります。
619mの山頂には芭蕉の句碑もあり、天気が良い日は、那須連峰や磐梯山なども眺めることができます。
城としての歴史的詳細は不明であるが、村人の避難場所と同時に関ヶ原合戦の際の上杉方の見張りが置かれた城郭ではないだろうか??





関山城 主郭 満願寺本堂関山城 主郭 満願寺本堂





主郭からの展望主郭からの展望





主郭裏の大堀切主郭裏の大堀切




[福島県白河市関辺本沢]

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㊟ピン位置は満願寺駐車場にして有るが、一般車は行けるか不明で二枚橋登山口の登山用駐車場に止めるのが賢明です。

常盤城(旭城) 福島県田村市

常盤城(旭城)








完成 常盤城@ヤマシロ
㊟現地鳥瞰図を参考にしたイメ-ジ図になります。




旧常葉町の中心部の東にある大志多山(標高536.4m、比高90m)を城域としていた規模の大きな城郭である。本郭のほか二の郭・三の郭・四の郭のほか、東の出丸、北の出丸の5つの砦(曲輪で構成されていた。鎌倉時代後期の1274年(文永11)、熊谷直実の子孫の熊谷直則が築いた居館がその起源とされ、以後およそ300年間にわたって、この地域一帯を支配した熊谷氏、常盤氏、石沢氏の居城となった。石沢氏は戦国大名の田村氏に臣従し、同城は相馬領と境を接する位置にあったことから、田村氏の東の備えとして機能した。1589年(天正17)、田村氏の内紛に応じて侵攻してきた相馬・岩城連合軍の攻撃を受け、城主の石沢修理亮が戦死し、同城は落城。その後間もなく廃城となった。現在、城域一帯は舘公園(城址公園)となっており、二層の櫓(模擬天守)が建っているが、常葉城は近世城郭の天守は持たず、この建物はかつての城の建物を復元したものではない。また、二の門跡を起点に三の丸跡や本丸跡に至る遊歩道が整備されている






常盤城 登城口
常盤城 駐車場からの登城口で、本丸迄の最短距離!!




常盤城 阿弥陀堂
五ノ郭 阿弥陀堂跡




常盤城 城址碑
常盤城(旭城) 城址碑




常盤城 模擬店所
本丸の模造天守

大越城(鳴神城) 福島県田村市

大越城(鳴神城)









大越城 鳥瞰図
大越城 鳥瞰図 現地説明板より




大越城は田村氏の重臣で、坂上田村麻呂の末裔と伝わる大越顕光の居城です。顕光が下大越城に替わる居城として築き、田村氏が領内に築いた「田村四十八館」の中でも最大規模とされます。顕光は当主・田村清顕の死去後に家中が分裂した際に相馬方についたため、1588年(天正16年)に伊達政宗の命を受けた伊達成実の攻撃を受け、これを撃退しています。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による「奥州仕置」で伊達領と認められますが、翌年に政宗が岩出山に移った際に廃城になったと思われる。

城への入り口は2ヶ所有、入り口には説明板完備だが駐車場有りません!!城内は広範囲で主要箇所の遺構には説明板が有りますが城全体に湿気が有りシダや下草が多く有ります。





大越城 登城口
東側の入り口




大越城 ニノ丸
下草の茂、ニノ丸




大越城 駒石
馬場に残る駒石・・・石の上部には馬の蹄跡が( ゚Д゚)・・・・黒王より巨大なのでは!!




大越城 本丸 城址碑
本丸の城址碑




大越城 南虎口の土塁
北虎口の土塁、長塁となる!