星の数ほどの城館(*ノωノ)随時更新中・・・・・・・・・・Digi Bookで見る 城館をどうぞ( `ー´)ノ 古城巡り 写真館
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古城巡り 写真館

〜フォトム-ビ-にて現在の城館・史跡を紹介して行きます!!遺構の有無に関係なく・・・・・・・〜
古城巡り 写真館 城館リスト 2030.01.01
津久井城 神奈川県相模原市 2019.07.08
小松城 神奈川県相模原市 2019.07.08
上の山城 神奈川県相模原市 2019.07.08
伏馬田城(尾崎城) 神奈川県相模原市 2019.07.08

大浦城 青森県弘前市 2013年7月

大浦城 説明板城址碑
大浦氏(のちの津軽氏)の居城として使われていた。大浦氏が戦国大名として地位を固め、臣従していた宗家の南部家から独立的な行動をとるようになった時期に使われていた城である。城の規模は東西500m、南北250mほど。津軽藩の始祖とされている大浦光信(おおうらみつのぶ)が南部氏への備えとして、1502年(文亀2)にもともとあった西根城を改修して築城し、次男の盛信を置いた。光信の跡を継いだ盛信の時代には、大浦城は主城となった。その後、津軽統一を成し遂げた大浦為信(のちの津軽為信)の治世下になって、主城を堀越(ほりこし)城に、さらに弘前城に移したことから、大浦城は属城となり弘前城の詰めの城としての役割を果たすことになったが、1615年(元和1)の江戸幕府の一国一城令により廃城となった。城の跡地は現在、弘前市立津軽中学校の敷地などになっており、校門近くに石碑と解説板があるが、本丸、二の丸、西の丸の土塁跡をわずかに残すのみ。また、この城の大手門は弘前城の北内門(賀田御門)として移築されたが、賀田御門も現存していない



大浦城 現地説明板より
現地説明板より



大浦城 大手門跡
大浦城大手門跡



大浦城 現在
大浦城の現在




大浦城 現在2
このリンゴ畑の先に堀跡が有ります





台所
長勝寺庫裏として移築された台所、500年以上前に建築されたという津軽地方最古の建築物です
又法源寺中門として移築された裏門が残ります。

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堀越城 青森県弘前市

堀越 熊野宮
堀越城入り口 熊野宮鳥居




堀越城址碑
鳥居脇の城址碑

「堀越」という地名が文献上に現れるのは、南北朝時代の建武4年(1337)にさかのぼります。この時の記録には「堀越に楯(館)[たて]を築く」とありますが、この「楯」の詳細は不明です。
 大浦城(弘前市大字五代)の城主であった「南部右京亮[うきょうのすけ]」為信(後の弘前藩初代藩主津軽為信)は、16世紀後半(約440年前)に、津軽を支配していた南部氏から独立を図ります。この頃から再び、「堀越」の地名が現れ始めます。
 弘前藩が享保16年(1731)に編さんした弘前藩官撰史書『津軽一統志』によると、元亀2年(1571)、為信は堀越城から石川城(大字石川)の城主南部高信を奇襲し、石川城を攻め落としたとされています。その後、為信は大光寺城[だいこうじじょう](平川市)や浅瀬石城[あせいしじょう](黒石市)を攻略し、天正19年(1591)頃までには、「津軽右京亮」為信として豊臣秀吉より大名として認められ、領地安堵を得ることとなりました。
 文禄3年(1594)、為信は堀越城を改修し、大浦城から居城を移します。その後堀越城は、弘前藩2代藩主信枚が高岡城(後の弘前城)へ拠点を移す慶長16年(1611)までの17年間、津軽氏の居城として栄えました。




堀越 土塁1
ニノ丸の土塁


堀越 土塁2




堀越 本丸土橋?
本丸の虎口
昭和60年(1985)、「戦国時代から江戸時代まで続いた大名の居城・居館等を発展・展開順に指定する」という、文化庁の方針の下、「津軽氏の発展形態の理解を容易とする」ため、昭和27年(1952)に既に国史跡指定を受けていた弘前城跡に追加する形として、堀越城跡は国の史跡に指定されました





堀越 本丸水堀

本丸の水堀・・・・整備中でした



堀越 本丸遠景
二ノ丸から見た本丸




堀越 本丸 熊野宮
本丸 熊野宮
堀越 本丸




堀越 本丸からの遠景
本丸から三ノ丸を望む




堀越 遠景
三ノ丸から本丸を望む

注;2013年7月の写真です、現在は整備が進み綺麗になっています。

青森市城館 ② 青森県

油川城 新城 高屋敷館 青森県青森市









w300h300油川城遠景
油川城遠景
青森市外北西の丘陵地に位置し、東西200m、南北350mの規模で平地の中に孤立した城郭となっていた。現在は畑作地となり平坦化されている。
築城年代は不明であるが、諸書により南部氏奥瀬氏の居城とされる。「異聞記」に「油川へは南部奥瀬判九郎下り、外ヶ浜の代官となり、その子善九郎船水讃岐なり」とある。
津軽氏の「津軽一統志」に、天正13年(1585年)3月、大浦為信による油川一帯外ヶ浜攻めに際して一戦も交えず田名部に逃げ去ったとある




w300h300新城城、照法寺が城址
新城城、照法寺が城址
JR奥羽本線「津軽新城駅」の南西1km程の照法寺が城跡で県道247号線沿いに照法寺への案内が出ている
歴史的詳細については不明。





w300h300高屋敷館、復元整備がなされている
高屋敷館、復元整備がなされている(2013年7月)
古代(平安時代)の環壕集落(かんごうしゅうらく)遺跡で、指定面積約30,000平方メートル(南北約500メートル、東西約90メートル)です。遺跡の中心部には、空壕(幅6~8メートル、深さ最大約4メートル)と、壕(ほり)を掘った土を壕の外側に積み上げた土塁(どるい)とに囲まれた集落(南北約110メートル、東西約80メートル)があります。
遺跡のある丘陵地では以前から人が住んでいたようですが、高屋敷館遺跡では10世紀ごろから12世紀ごろまで人々が住み、11世紀には壕と土塁に囲まれた集落として最も栄えたとみられます。集落西側の土塁が途切れた部分から壕をわたり、木柱の門をぬけると、たくさんの建物や、建物をつなぐ通路、柵列がつくられ、鉄に係わる生産活動などが行われていたようです。
集落が途絶えると壕は完全に埋められ、近年まで果樹園などとして利用されていました。



㊟2013年7月に登城

青森市城館 ➀ 青森県

青森市城館 ➀ 青森県







w300h300浅瀬石城
浅瀬石城
城は北へ突き出た舌状台地の先端にある。城址は、現在リンゴ園となっており、堀跡は、農園内の作道となっている。近くには、浅瀬石川が流れている。城の構造は東方・北方に浅瀬石川が流れているが、西方・南方の城下があった高賀野方面は平地である為、田舎館・大光寺方面との連携が必要である。

仁治元年(1240年)、千徳氏の祖である一戸行重が築城したとされるが、その根拠とされる『黒石星田家文書』の千徳系図は不審な点が多く、詳細は不明である。
戦国時代、城主の千徳政氏が南部氏を裏切って津軽為信と同盟を結んだ。すると、南部信直は激怒して東政勝を攻手として天正13年(1585年)4月、3000の軍勢で浅瀬石城を攻撃してきたものの撃退した(宇杭野の合戦)。しかし、この合戦で為信が援軍を出さなかった事により後の不和の原因となったといわれている。
慶長2年(1597年)2月、千徳政康の代に津軽氏との同盟が破綻し、寝返った重臣木村越後らが本丸を急襲、敵将森岡金吾などの津軽軍2500人の攻撃を受け、2000の城兵は奮戦したが落城、政康は自害したため、廃城となった




w300h300高田城
高田城
建築時期は不明である。戦国時代には土岐則基の居城であった。則基は高田村、荒川村を領して、800石で南部氏に仕え、津軽関門の守備を担っていた。天正6(1578)年、大浦為信が浪岡城を攻略、則基と嫡男の則重が戦死した。次男則忠・三男則吉は南部高信次男政信の娘を奉じ、三戸に逃亡し、則忠は三十石を賜った。それにより、廃城となったと思われる。土岐氏は、慶長年間に政信の娘が、七戸城主七戸直時に嫁ぐと、付き人として、直時に仕えて、二十三石切米五駄を賜った。後に直時の命で「高田」に改姓すると、七戸城番頭筆頭四家の一つとして栄えた。




w300h300横内城
横内城
現在の本丸部分からは横内城は東西80m、南北160mの平城であったと推測される。比高は8mと言われる。円形であったといわれるが、現在はっきりしている範囲では楕円形である。ただし、二の丸、三の丸があったとも言われ、それを含めると東西167mに及び、ほぼ円形になるといわれる。現在は堀はほぼ空堀となっているが、かつては横内川に面した崖になっている東側を除き水堀が存在した。南北の堀は幅10mから15m、深さ7mから8mである。西側の堀は幅8m、深さ2mであるが、これは合子沢川が天然の堀をなしていたため、それほど深い堀は不要と考えられたためであると考えられている。遺跡の発掘がさほど行われていない上、当時の資料にも曖昧な点が多く、今なお不明な点が多い城郭である。現在横内城本丸と呼ばれているのは常福院のある場所であるが、その場所は城代が置かれた後に盛土がされた痕跡があり、戦国時代当時からそうであったのかははっきりしない



w300h300築木館
槻木館・詳細については不明





w300h300蝦夷館
蝦夷館・詳細については不明

黒石市 平川市 田舎館村城館 青森県

黒石市 平川市 田舎館村城館 青森県








w300h300尾崎城・本丸の城址碑
尾崎城・本丸の城址碑


尾崎城は、周辺の城郭同様集落のほぼ全体が城址である。戦国時代には、大光寺城の支城として機能していた。平城ではあるが堅固である為、隣村の新屋城と共に、浅瀬石城、浪岡城など諸城と協力する事によって、本城、大光寺城を守るのに力を発揮する。現在はほとんど宅地化しているが、堀や切岸が比較的良好に残されている。城は本郭(大館)と外郭(小館、尾崎出丸、勘助出丸、木戸口出丸)で構成されている。



w300h300新屋城の支柱
新屋城の標柱


築城年は不明。鎌倉時代に新屋氏によって築城された。新屋氏は清和源氏南部氏流七戸氏の庶流である。

戦国時代の城主は、新屋源次郎であり、千九百石の領主であった。大光寺城南部氏の支配下にあった。隣村である尾崎村尾崎城主の尾崎氏と同盟を結んでいた。藩史によると天正4(1576年)、もしくは天正2年(一統志)、11年(津軽年代記)に尾崎城主尾崎喜蔵と共に大浦為信家臣となった。一説には、大光寺城主滝本重行の攻撃により、新屋城が落城し、浪岡城に逃れた後、津軽家家臣となったという。

新屋城には、落城後も弘前城完成までは代官所が置かれていた。

津軽家家臣となった新屋氏は津軽為信より、百石を与えられ弘前藩士となった。新屋源次郎より十三代目の新屋茂樹は、近衛文麿の秘書を務め、茂樹の死後、新屋家より新屋八幡宮(新屋城址にある)に甲冑、太刀、陣羽織、陣笠などが奉納されている。





w300h300天内館・館東端に祀られている保食神社
天内館・館東端に祀られている保食神社


天内館は台地の北端部に築かれており、三郭で構成されかつては土塁と空堀が残っていたというが、現在は田畑や宅地となっている。 天内館の標柱の建つ畑地の所は、切岸加工のような地形が残り、それとなく館跡の雰囲気は残っている。



w300h300五日市館・周辺は田畑となっている
五日市館・周辺は田畑となっている
大光寺曽我氏滅亡後、延元3年(1338)に藤崎城城主の安東秀光が拠点としていた十三湊が大津波に襲われたため、安東次郎左衛門秀光は大光寺の五日市館に築城し大光寺氏を名乗ったと伝えます。





w300h300堂野前館
堂野前館
堂野前館は浅瀬石川の北岸にある堂野前集落に築かれていた。 本館と東館の二郭で構成されていたという。東館部分は果樹園、本館部分は宅地となっている。
  




w300h300諏訪堂館・東部付近の稲荷神社
諏訪堂館・東部付近の稲荷神社
諏訪堂館の館主・沿革は不明である。恐らくは大光寺城の安東氏の支城であったものと思われる。





w300h300垂柳館・三郭の神明神社
垂柳館
詳細については不明である
「垂柳」とは、浪岡城主である北畠氏四天王の 垂柳(すいやなぎ)氏から来ているとされるが、詳細は不明である。 天正年間(1573? 93)の頃には鹿内但馬守が館主であったと伝えられ、この鹿内氏と垂柳氏は同一と思われる
館は、西から主郭、二郭、三郭と連郭式となっている三郭は垂柳神社から集落在ったとされ二郭は集落西側に小さな郭である
主郭と二郭は現在果樹園となる






w300h300田舎館城本丸の土塁跡
田舎館城
田舎館村役場の東側にポツンと残る「ヤマコ」と呼ばれる林が城跡です。
「ヤマコ」には画像の解説板の他に石碑&標柱があり、「ヤマコ」自体も土塁跡になっています。
また、標柱脇に植えられたサイカチの木は、天正13年(1585年)の落城の際、330余名の城兵を埋葬した時の供養樹とも云われています。





w300h300黒石城・城址碑
黒石城
天和4年の境松村絵図によれば、黒石城は外広市館・内広市館と東西に並び、南の花館とあわせて三郭で構成されていたようである。
現在の境松集落の部分よりやや低地の所に、外広市館・内広市館部分が残っており宅地になっているようである。南にあったとされる花館は残っていない。
解りずらいが、城址碑は橋を渡る手前にある






w300h300黒石陣屋・城址碑
黒石陣屋
陣屋は明暦2年(1656年)交代寄合旗本であった津軽信英により築かれ、8代領主親足の代の文化6年(1809年)加増により1万石を領し、諸侯に列し、黒石藩として立藩した。十一代承叙の代に明治維新を迎えている。明治4年7月の廃藩置県と黒石県の成立、9月の弘前県への吸収合併により、存在意義を失い、廃城となった。
南側には浅瀬石川が流れ、陣屋との間には宇和堰があり、地形的にも自然の要塞を呈していた。大手門近くには、町令所や太鼓櫓があった。さらに、中門、無常門、御制札場などが北側にあった。西側には馬場、南東には津軽信英を祀った御廟があり、南側には蝦夷館(えぞだて)と呼ばれる地が置かれている。御門内に入るためには、大手門か西門を通過しなければならないが、これらは典型的な枡形門となっていた。陣屋の東側には、空堀があったが、明治の初め埋め立てられている。陣屋内には、御殿、台所、御蔵、焔廠蔵が配されていた。浅瀬石川に臨む段丘は比高13mの高さがあり陣屋地では唯一の要害である。
陣屋跡は、明治6年8月28日黒石小学校が建設された(後に現在地に移転)。市民文化会館や中央スポーツ館の敷地などとなり、馬場跡が黒石公園(後に御幸公園)となった。